相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『限りなき 弥陀の慈光に つつまれし 慶びの春』(2014年1月 1日)

限りなき 弥陀の慈光に つつまれし
迎えて今朝は 慶びの春


あけましておめでとうございます。
暮れにはクリスチャンでも無いのにクリスマスに浮かれていた人達も、新年を迎えますと今度は仏教徒か神道信者に早変わりをして有名な神社仏閣に初詣でに出かけます。その事になんの疑問も感じないようです。深く、重く、尊い人間としての"いのち"を賜ったのですから明確な信仰心、正しい宗教心を持って欲しいものです。正しい宗教心と言っても何が正しい宗教か、何が偽りの宗教か判断することは難しいと思いますが、宗教には次元の高い宗教と次元の低い宗教があります。その区別は少し考えれば分かるでしょうからどうか次元の高い宗教を選んで欲しいと思います。それが正しい宗教であります。


 世の中には無病息災、家内安全、交通安全、商売繁盛などを謳い文句にしている宗教は多くあります。それらのことを願うことは当然ですし私も願いますが、それを宗教によって叶えてもらおうと考えるのはいかがなものでしょうか。本当にあった分かりやすい話を紹介しましょう。


 ある神社に薬屋の檀那と病弱な青年が初詣でに来られ、薬屋の檀那さんは今年こそ薬がどんどん売れて商売繁盛するようにお祈りをしたのです。するとその後すぐに病弱な青年が来られ今年こそ健康になって高い薬を買わないで済むように祈られたのです。神様はどちらの願いを叶えるのでしょうか。祈って願いが叶うなら不幸な人は世の中に一人もいなくなるでしょう。


 もう一つ考えてみたいことは「朝寝して 夜寝る前に 昼寝して 合間合間に 居眠りをする」と言う川柳があります。一日中寝ているような怠け者ですが、こうした人でも幸せになりたいと願っているのです。皆様がこうした人から幸せになりたいと相談をされたらどう応えますか。それは無理だと応えるのでは無いでしょうか。


 ある人が寺の住職に人の幸せはどういうことかと尋ねられました。住職は「愛され、誉められ、役に立ち、必要とされる人になることです。」と応えられ、「そのためにはよく働くことです。」と申されました。こうしたことからも神社で祈ることによって幸せ、願いを叶えてもらおうとすることがいかに次元が低いか分かるのではありませんか。幸せになるにはよく働くことが大切だと目覚めることが大事なのであります。


 目覚めるとはどういうことでしょうか。ある経典にこのような話があります。善財童子という求道者が文殊菩薩の指示によって南へ南へと聞法の旅を続け53人の善知識に会って法を求められたと言います。53人の善知識は高僧ばかりでは無く中には遊女もおりその人の前にひざまずいて法を聞かれるのです。53番目に普賢菩薩に会って、阿弥陀如来がすべての衆生を救うと説かれておられる極楽浄土に生またいと願うようになったと説かれています。


 善財童子とは、善き財は童子の心、童心であると私は味わさせていただいております。童心だからこそ遊女の声にも耳を傾けられたのでしょう。人は大人になり社会でいろいろな経験をし、もまれるうちに、清い純真な童心は邪見驕慢な心に染まってしまい、そうした心では法は耳に入らないことを教えてくれているのでしょう。親鸞聖人は正信偈に


邪見驕慢悪衆生 (じゃけんきょうまんあくしゅじょう)


信楽受持甚以難 (しんぎょうじゅじじんになん)


と説かれ、邪見驕慢な人は弥陀の本願を信じ本願を喜ぶことは難しいとお示しくださいました。邪見驕慢な私でありましたと知らされることが目覚めるという事であります。如来の慈光に照らされずして目覚めることは出来ないと思います。如来の慈光に何時でも何処でもいかなる場合も照らされていた私でしたと気付くには仏法聴聞しかないのであります。本年も仏法聴聞に励みたいものです。合掌

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