相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『先祖の願いを受け継いだ 尊いいのち』(2013年12月 1日)

私のいのちは 先祖の願いを受け継いだ 尊いいのち
その事に気付き 完全燃焼してこそ 悔いなき人生


 私は両親の大きな願いの中に尊い"いのち"をいただいたのです。私の両親も祖父母より大きな願いを受け、またその祖父母もその親の深い思いを受けた"いのち"を生き抜かれたのでしょう。そうしてみると私は綿々と脈々と受け継がれた無量の先祖の願いを一身に引き継いだ"いのち"まさに"無量のいのち"を生きているのです。その与えられた無量のいのちは先祖に、家族に、友人に支えられているだけで無く、大自然のはたらきに支えられているのです。大自然と一体になった大きく、深く、重く、尊いいのちを生かされながら衣・食・住が満たされればそれで満足できるのでしょうか。


 定年を迎えたある方が、これからの人生好きなことを精一杯やろうと決めて、朝寝坊を喜びとして、ゴルフに明け暮れ、旅行を楽しみ、酒、美食と贅沢三昧で一年を過ごされました。そしてその方が言われました。「人生は虚しい」と。


 やはり先祖綿々と受け継ぎ、自然と一体となった深い重いいのちを生かされているのだから、自分の本心に生き、完全燃焼しなければ満足は出来ないのでしょう。人間として充実した生き甲斐と悦びを得るのに一番大切なものは寿(いのち)と光(ひかり)であります。


私たちは生き生きとした燃えるようないのちをいただいているだろうか?


光に照らされ輝く明るい生活をしているだろうか?


"いのち"も"光"も無い迷いの暗い人生を歩んでいるなら無量の寿と不可思議な光を持ち合わせた阿弥陀如来に深く帰依することが大事な事です。阿弥陀如来の願い、本当の願い、本願に出会うことが苦しみや迷いから救われ、充実した生き甲斐と悦びを得る道であります。
阿弥陀如来の本願とは何時でも、何処でも、如何なる場合でも、悩み苦しむお前を見捨てはしない。見捨てることは出来ないのだ。必ず救うぞ。おまえの悩み苦しみはすべて私が引き受けるから肩の荷を下ろして楽になれよ。安心して前を向いて歩めよ。私は何時でも一緒だよと慈しみの心で私をしっかりと受け止めてくださるのが阿弥陀如来の本願であります。


 親鸞聖人は阿弥陀如来の無量の寿と不可思議な光に出会えたその深い感動と悦びを正信偈に


帰命無量寿如来


南無不可思議光



と聖人の心の内の悦びを詠われたのです。
正信偈は聖人ご自身の深い信心の告白でありますが、正信偈をお勤めさせていただくとき私には正信偈が聖人の声となって聞こえてくる思いがするのです。「お前も人生に迷い苦しむなら、私も如来の寿と光に出会えて救われたのだからお前も無量の寿と不可思議な光に帰依しろよ」と聞こえるのです。「必ず救われるよ。必ず悦びと生き甲斐を得ることが出来るよ。」と聞こえるのです。
生き生きとした寿と明るく照らす光を賜った悦びを味わうとき、よくぞ人間として生まれることができたものだと悦びの念仏がこぼれます。合掌

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