忘れていても 死はやってくる
死に方を心配するよりも
死後の行き先を定めることが肝要です
私は自分を老人と思ったことはないし、年を感じたこともありませんが、毎日死は考えます。ですから一日一日、一人一人との出会い、ひとつひとつの出来事を大切に大切に味わっているのです。よく他人とこれからの人生を語り合うことがありますが、「長患いはしたくないなぁ」「ぽっくり死にたいなぁ」「苦しまずに楽に死にたいなぁ」「一人暮らしになったら何を、誰を頼りにしたらよいのか」そんなことばかりが気になるようです。賜った尊い人生、自分なりに完全燃焼して我が人生悔いは無い。良い人生でしたと言える生き方を何故求めないのでしょう。そしてまた死んだらどうなる。何処へ行く。その解決が肝要なのでしょう。それでこそ安心して死んでいけるのです。死に方は問題ではないのです。もちろん願いとしては七転八倒してもがきながら苦しんで死ぬのは嫌だし、長患いをせず眠るように死にたいとは思いますが、生も死もお与えです。私の計らいは通らないのです。
名僧、高僧といわれた方々でも、親鸞聖人のように不例の床につかれてからは如来のご恩の深いことだけを語られ、釈尊の涅槃の儀に習って頭北面西右脇に伏され静かに穏やかなお念仏の中にお浄土に還られるというそんな格好良く楽に死ねる方ばかりではないのです。
子供らと手鞠や隠れんぼなどに戯れる天真爛漫な人柄は子供のみならず大人からも深く敬愛された良寛さんは、越後に大地震が起こったときの知人からの見舞い状の返書に「災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候」と人生を達観されておられましたが、晩年は大腸癌を患い激しい下痢で苦しみ、下の世話も良寛さんを慕う貞心尼に頼らざるを得ず「言(こと)にいでて いへばやすけし くだり腹 まことその身は いや堪えがたし」と大変な苦しみを歌に遺し死んでいかれたのです。73才でした。
とんちで有名な一休さんは女犯肉食をされ、一見風狂に生きられ、晩年は盲目の美女森(しん)をこよなく愛されたと言います。一休さんは自身の罪悪感からか「極楽は 十万億土はるかなり とてもゆかれぬ わらじ一足」と詠われ87才の時に肺炎かと思われる高熱にうなされ「死にとうない 死にとうない」といって座ったまま死んでいかれたといわれます。
近代名僧の中では、梅原猛さんが近代日本最大の仏教者と賛辞された鈴木大拙先生は、アメリカの女性と結婚され100冊の著書のうち23冊を英文で書かれたとのことです。昭和41年7月10日例年のように、明日軽井沢へ行くといって仕事の予定を元気よく語たられましたが、翌朝激しい腹痛を訴え、嘔吐を繰り返し、痛い、痛い、この痛みはかなわんと叫びながら救急車で聖路加病院に運ばれ7月12日生涯を閉じられました。
どれだけ信心を深めても、世に善行を積まれても、七転八倒して死んでいかなければならない人もいるし、手を合わすことも知らず、悪行のし放題の人でも楽に死んでいく人は死んでいくのです。死に方が問題ではなく、人生どう生き、何処へ行くのかが問題なのでしょう。親鸞聖人は「なごりおしくおもえども 娑婆の縁つきて ちからなくしておわるときに かの土(彼岸の浄土)へはまいるべきなり」(歎異抄 第九条)とおっしゃいました。仏法聴聞の中に信心をいただき、お浄土へ参らせていただけるとの確信を元気な内に得ることが大事な事と思います。合掌