相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『詫びながら ゆるしを請うて 合わす手に 聞法せよと 母のさいそく』(2013年8月 1日)

詫びながら ゆるしを請うて 合わす手に
聞法せよと 母のさいそく


 お盆を迎えますと、自然と今は亡きお世話になったあの人のこと、この人のこと様々な方のことが懐かしく思い出されます。お盆の謂われは神通力第一と言われた目連尊者(もくれんそんじゃ)が餓鬼道に堕ちて苦しんでいた母を釈尊の教えに従って救うことが出来たという謂われが盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事として今に伝えられています。目連尊者は釈尊の十大弟子のお一人に数えられ、尊者、尊者と敬われましたのに、何故その目連尊者を育てられた母は餓鬼道に堕ち行ったのでしょうか。


 目連尊者の母は我が子かわいいがため、他人から後ろ指さされようが、他人と争ってでも我が子のためには物欲に走り、足るを知らない貧欲(とんよく)の生活をされたのであります。釈尊は持っても持っても満足ということを知らない者を餓鬼とおっしゃいましたが、正に目連尊者の母はそうした生活を我が子のために余儀なくされたのでありましょう。それがために餓鬼道に堕ちて苦しまれたのであります。考えてみるに目連尊者の母の取られた行動は世の母親に共通した宿命のようにも思えます。そうしてみますと浄土真宗以外の多くの宗派で餓鬼道に堕ちて苦しむ亡者に飲食物を施す意で読経、供養を行う施餓鬼法要が行われることも頷けるのです。


 浄土真宗では何故施餓鬼法要を行わないのですかと質問をされることがあります。貧欲、瞋恚(しんに)、愚痴の生活や罪深い行いをされている人も仏法聴聞の中に私はなんと恥ずかしい、情けない、悲しい愚か者でしたと自覚をせざるを得ない思いで沈んでいる時、そうした者を必ず救う。見捨てはしないと誓ってくださる阿弥陀如来の本願がなんとも有り難く、かたじけない思いでいただける時、念仏申さずにはいられなくなり、自然とお念仏がナンマンダブツ・ナンマンダブツとこぼれてくるではありませんか。そうした者は正定聚(浄土に生まれることが定まった仲間)につけると親鸞聖人はお述べ下されました。


 私の母は毎日毎日仏書を深く読まれ、その味わい、悦びを我が子だけではなく有縁の方々、老若男女誰にでも優しく温かく語ってくれたものです。ですから沢山の方にお母さん、お母さんと慕われていました。聞法にも熱心にいそしまれた母でありました。晩年は本堂に上がることが出来なくなり客殿の客溜で椅子に座ってスピーカーから流れる法話を聞いておられました。そして必ず分かりやすかったわ。良かった。また聞かせてくださいと励ましてくれたものです。今ではその母の励ましは仏法聴聞怠るなよとの母の忠告であったと思うのです。その母は子や孫、ひ孫、そして親しい人に看取られながら声にはなりませんでしたが恩徳讃を口ずさみ、お念仏を口ずさみながら静かに静かに息を引き取られたのであります。阿弥陀如来が法をお説きくださっておられる。先に往かれた先代住職がお待ちになっていらっしゃる。沢山の懐かしい方々と再びお目にかかれるお浄土へと還っていかれたのは間違いないことであります。合掌

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