相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『人間として生まれた意義は 私はなんのために生まれてきたのか 死んだらどうなるのか この答えを見つけることです』(2013年6月 1日)

人間として生まれた意義は
私はなんのために生まれてきたのか
死んだらどうなるのか
この答えを見つけることです


 先日NHKのテレビで、団塊スタイル「家族の不安を解消!自分で決める葬儀と墓」と題した放送がありました。団塊の世代を迎えた人々には死が切実な問題になるのですね。死を考えた時、葬式と墓が心配になるようであります。


墓の問題では「田舎の墓は遠くて誰もお参りしてくれないだろう」「後を見てくれる者がいない」「墓を建てる費用がない」などの理由で永代供養墓や合同墓あるいは樹木葬などを考える人が多くなってきたようです。


葬儀に関しては故人の意志でと言って(こうしたことは大変素直に聞かれるようです)内輪だけで済ませたいと言って家族葬とか直葬とか無宗教葬などが増えているようです。


放送では人間は一人で生きているのではないのだから、送られる人の思いだけではなく、送る側の考えも大切ですし、簡単に済ませてこれで良かったのかと悔いが残る人がいることも事実ですと述べられていました。


 人間はどれだけ死を嫌っても、逃げても、忘れていても、どんな名医にかかっても必ず死を迎えます。人間は年齢で死ぬのでも、病気で死ぬのでもありません。死の縁が熟して死ぬのです。ですから葬儀のあり方を考えたり、墓を考えることも大切ですが、私は団塊の世代の人だけでなくすべての世代の人にももっと大切なことがあると思うのです。


人間(私)はなんのために生まれてきたのか
人間(私)は死んだらどうなるのか


この問題を考えることが最も大切なことではないでしょうか。なんのために生まれてきたのかと問いますと、「世の為、人の為に働く為に生まれてきた」と優等生のような答えを言われた方がおいでになりました。大変立派なことですが、人の為と書いて偽りという漢字になることは大変面白いですね。「金儲けの為です」と本音を言われた方がおいでになりましたが、死ぬ間際に金儲けができて本望だと思うでしょうか。「おまえと一緒になる為に生まれてきた」と恰好つける人がいますが、綾小路きみまろではありませんが、あれから40年・・・どうなりますかね。


 私は寿(いのち)と光に出会う為だと思うのです。生き生きとした寿と、悩み多い暗闇の人生を安心して歩める明るい光に出会うことが人生の価値ある意義でありましょう。親鸞聖人もそのことを「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とうたわれたのです。


 死んだらどうなる。このことはどう思われますでしょうか。60代の大きな事業をされている方に尋ねますと、「そんなことは死んでみなければ分からない」と答えられました。あなたの会社は今後どうなりますかと尋ねたら「そんなことは運営してみなければ分からない」とは答えないでしょうね。先が分からないというこれほど不安なことはありません。


一人旅をしてして道に迷い他人に道を尋ねたくても人がいない。道はどんどん細くなり、不安ながらも歩いて行くと小さなトンネルが口を開けていた。果たしてこのトンネルは抜けることができるのか。何か変なものでもいやしないだろうか。真っ暗で何も分からない。あなたはこのトンネルに入れますか。


70代の女性は考え抜いて「死んだら灰になります」と答えられました。確かに荼毘に付されますと骨と灰になりますが、それで納得ができますか。どれだけ苦しもうが悩もうが耐えて耐えてひとつひとつ乗り越えて今日があるのです。それなのに死んで灰になるだけなら、なぜわざわざ耐える必要があるのでしょうかそれではあまりにも虚しいではありませんか。私は死んだら灰になるのではなく、お浄土に生まれて往くのです。それも死んで浄土ではなく、元気な今、浄土往生を確信させていただいているのです。親鸞聖人も


なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。(歎異抄・第9条)


と申されました。かの土とは彼岸の浄土の世界であります。お浄土で親鸞聖人や大切な父母や有縁の方々とお目にかかれると思うと大きな悦びであります。合掌

最近の記事

月別アーカイブ