相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『人生の生きる目的は 佛の本願に出会うことです』(2012年5月 1日)

人生の生きる目的は
金を稼ぎ名声を馳せることではありません
佛の本願に出会うことです


 先日、大変驚き、深く考えさせられたことがありました。蓮の花の鉢を掃除したときのことです。昨年の夏、見事に咲いてくれた蓮の花です。鉢の中にはボウフラの駆除を目的にメダカを飼っていました。メダカはとても可愛く、毎朝エサもやり、新鮮な水も補充して楽しませてもらいましたが、花も終わり、蓮の葉も枯れてきて、メダカも鳥に食べられたりしていなくなってしまい10月後半よりほっとらかしにしておりました。


 約半年間、その間には雨が降って鉢の中が潤ったときもありましたが、カラカラに干上がったようなときもあり、寒さで氷が張ったときもあり、鉢の中はヘドロでそれはそれはひどい状態になってしまいました。見かねて掃除をし、バケツ2杯のヘドロを手で掻き出し、腐った水を汲み出し、新しい水を補充したのです。そのとき、なんと言うことでしょう。メダカが3匹元気に泳ぎだしたのです。ヘドロの汚泥の中でじっと暑さにも寒さにもひもじい思いからも耐えて生きていたのです。メダカがいるとは思いもせず、可哀想なことをしました。


 そんなことを一昨日来られたお客さんに話をしました。その方はJRの運転手さんをされているのですが、彼は「メダカでもそんな悪い条件の中、耐えて耐えてたくましく頑張って生きているのですね。それに比べて人間はだらしがないですね。」と言われる。彼が言われるにはどのような事情があるのかは分かりませんが、ニュースになるかならないかで毎日のように電車の飛び込み自殺があるというのです。「死んで花実は咲かないと思うのですがね。」と言われました。


 不思議な偶然の中に賜った命は必ず必然の中に死を迎えるのです。なのになぜそんなに急いで死を選ぶのでしょうか。生きる目的を失っているからではないでしょうか。私たちの日々の行動は目的がはっきりしています。街で知人に出会えば、今日はどちらへ?と挨拶をされます。仕事で会社に行きます。買い物でデパートに行きます。遊びで何処何処へ行きます。とこのように誰でも目的を持って行動されるのです。人生も同じで人生には生きる目的があるはずです。人生の目的は金を稼ぐことですとある人は言います。またある人は名声を馳せることです。権力をつかむことですと言い、いやいや食うためですという人もいます。人によって種々ですが、だとすればそうした目的が果たせなくなり、とことん落ち込むと死を選ぶようになるのではないでしょうか。


 人は失敗をして落ち込んでいる人に、「七転び八起きと言うではないか」「2度や3度の失敗がなんだ。挫けるな。」「男なら何があろうと歩み続けろ。必ず成功に結びつく。」などと励まします。人はこのように「諦めるな!」「負けてはだめだ!」「死んではいかん!」と生きることに勇気を持たせようとします。しかし私たちが種々に悩み、苦しみながらも耐えて耐えて1つ1つ乗り越えてきたのは、単なる生きるためだけのことではないのです。幸福になりたいがためなのです。食うことも、稼ぐことも、名声を馳せ、権力をつかむことも大変ですが度を過ぎると結局は金や権力によって泣かなければならないのです。


 人生の生きる目的は、「私の人生、眠れぬ日もあった。死にたくなった日もあったがこのことに出会えて良かった。生きてきて良かった、我が人生悔いはない」と思えるそうした何かに出会うためなのです。しかも何時でも何処でもどの様な状況にあろうと失うことのないもの。本物に出会うためなのです。それは阿弥陀如来の本願に出会うことなのです。念佛を悦ぶ身にさせていただくことであります。合掌

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