如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし
親鸞聖人ほどご恩の世界を重く深く感じ取られた方がおいでになられたでしょうか。私たちが毎日お勤めさせていただく正信偈も仏恩の深恩なるを信知してお作りになられたことでありますし、聖人の代表的な御和讃である恩徳賛にも如来の悲願と師へのご恩の深さ、重さを身を粉にしても、骨を砕いても応えねばならないと申されております。大変な決意であります。
90才で御往生あそばされるご様子は、世間的なことは口にせず、ただ仏恩の深いことだけを述べられ、ナンマンダブツ、ナンマンダブツとお念仏が絶えなかったと伝えられております。
このように聖人の仏様へのご恩に報いたいという並々ならない思いは如来の本願に出会えた悦びからでありましょう。その悦び、感動を
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄後序)
と常に仰せになられたと歎異抄に述べられております。仏様のご恩が有難く知らされますと、何事にもご恩の世界が見えてくるようであります。
先日、久しぶりにゴルフを楽しんだのですが、私の前を3人の方がプレーされていました。ふと気が付くと、一番年配の方が女性の肩を借りて歩いているのです。私は怪我でもされたのかと思って、キャディーさんにあの人はどうしたのでしょうか?と尋ねると、キャディーさんが教えてくれました。その人は74~5才になるのですが、今では目がほとんど見えなくなってしまい、奥さんや息子さんの肩を借りながらボールにクラブを当ててもらったり、方向を教えてもらってプレーをされているのだそうで、親子3人で時々来られて仲良くプレーをされているとのことでした。
私は思わず手を合わせたくなりました。親子、夫婦が深い絆で一如になった姿を感じたのです。こうした一如の姿は仏法を聴聞し、御恩を深く味わえたからこそ現れる自然な姿なのでしょう。この頃は一つの家族でありながら夫は夫、妻は妻、親は親、子供は子供で皆が勝手な行動する形ばかりの家族が増えているように思います。まさにご恩が見えなくなった姿でであります。悲しいことです。
今月28日は聖人がお亡くなりになられて750年の節目の年であります。当寺では11月20日、21日の両日御遠忌法要を厳修させていただきます。聖人の教えに耳を傾け、ご恩の世界を正しく見直してみたいものです。合掌