相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『生きる目的のある人には輝きがある』(2011年8月 1日)

生きる目的のある人には輝きがある
目的のない人生は空しい

 事業に失敗し奥さんに逃げられた五十代の男性が息子さんと墓参りに来られました。息子さんが私の顔を見るなり、住職少し話を聞いてくださいと言われ「父はここ半年くらい昼間からだらしなく酒を呑み、仕事を探そうともしない。このままでは体を壊すと思い、もっと前みたいにしっかりしてくれよ!と言っても、生意気言うなと怒るので困っているのです。何とかならないものでしょうか?」と言われる。


息子さんの心配もごもっともと思い、私もあなたは事業を失敗し、奥さんに逃げられ、苦しく辛いのはよく分かりますが、酒に溺れ、子供さんに心配をかけるなんて事は恥ずかしいことです。と言うと、「坊さんはすぐ説教をする。俺の人生俺がどう生きようが勝手だ!」と言われる。
あなたは本当は俺の人生どう生きようが勝手だなんて思ってはいないでしょう。心の奥ではこれではいけない。何とかしようと思っているのでしょう。と言うと、少し聞く耳と心を開かれたように感じたので、次のような話をさせて頂いたのです。


 よく"私の人生"と言うけれど、私の人生とは賜った人生なのです。お預かりした人生なのです。そして私の人生は昨日はもう無いのですし、明日も無いのです。今日1日の人生なのです。それなのに明日があると思うから、細やかなことに損した得したと目くじらを立てるのです。
明日があると思うからどうでも良いことにああでも無い、こうでも無いと争いを起こすのです。今日1日の人生と言うことに気付かされますと私にとって大事なことは、
今日をどう生きるのか?
何のために生きるのか?
死んだらどうなるのか?

と言うことではないでしょうか。どう生きる、何のために生きるのかと言いますが、生きると言うことは私が何かを行っていると言うことです。その行いには必ず目的があるのです。私は時々750グラムの重しを両足にはめて運動をすることがあります。決して楽なことではありませんが体を鍛えるために行うのです。何のために体を鍛えるのかと聞かれることもありますが、いつまでも元気でいたいからです。このように私の行動には必ず目的があるのです。目的があるから辛くとも苦しくとも頑張ることができるのでしょう。


 そうしてみますと、人生の生きる目的が分かっている人は、苦悩を抱きながらも1つ1つ乗り越えて納得のいく人生が味わえると思いますし、生きる目的を知らない人は、苦悩に負けて空しい人生を送ることになると思うのです。生きる目的がはっきりすれば納得のいく人生が味わえ、知らなければ空しい人生で終わるのです。知ると知らぬでは大変な違いです。それでは人生の目的とは何でしょうか。


 人生の目的は金儲けという人がいます。本当でしょうか?体の自由が利かなくなっても、もっと金儲けをしたいと思うでしょうか?それどころか苦労して稼いだお金が誰に使われるのか考えると夜も眠れなくなるのではないでしょうか?
人生の目的は権力や立派な役職に就くことだと考える人がいますが、権力や役職は単なる目標であり、生きる目的ではないでしょう。登ってみればさほどでもない富士の山と言いますが、目指しているときはよいのですが、達成されればだんだん醒めてしまうものです。
人生の目的は世の為、人の為に生きることだという人もいますが、世の為、人の為に生きることは大変立派なことですが、誰からも認められず、感謝をされなくとも世の為、人の為に尽くすことができるでしょうか?人の為と書いて"偽"と言います。


 このように考えますと生きる目的が分からなくなってしまいますが、親鸞聖人が人生の目的をしっかりと教えてくださいました。教行信証の総序に
「竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」と人生の目的は阿弥陀如来の本願に出会うことであると聖人は教行信証の冒頭にお述べくださいました。はじめは理解することが難しいとは思いますが、仏法聴聞を続けるうちに如来の永い永い間の御苦労はこの私を救わんが為の御苦労でありましたと必ず知らされると思います。
知らされるとき、有難いことです、かたじけないことですと言う思いの中に、自然とお念仏がこぼれると思います。ナンマンダブツ、ナンマンダブツとお念仏の中に、私の人生、眠れぬ日もあった。死にたくなる日もあったが、生きてきて良かった。如来の本願に出会えた今、私の人生悔いは無い。素晴らしい人生であったと言い切れると思うのです。合掌

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