相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『死んだらどうなる?』(2011年6月 1日)

死んだらどうなる?
この事の解決が
人生の一大事

 腰に異常な痛みを感じ、精密検査を受けたAさん。その結果心配無しと言われ、それはそれは喜んでいました。「寺参りをして仏様にお願いをしたお陰ですね!」と言われたAさんでしたが、その後も腰の痛みが取れず他の病院で再検査を受けられ、癌の告知を受けたというのです。Aさんの心境を思うと辛いものがあります。神も仏もあるものかと投げやりな気持ちにならなければよいがと心配です。


 Aさんを案ずる中に私たちは宗教に何を求めているのであろうかと考えさせられました。私の身に起こっている貧困だとか、病とか、複雑な人間関係等の悩み、苦しみの問題解決を宗教に求めることは当然のことですが、何事も自分の都合の良いよう運びたい。そのことのために宗教に頼ろうとしてはいないでしょうか・・・それは間違いです。何事も自分の都合の良いようにしたい。そのためにお祓いや占い等に頼ろうとしてはいないでしょうか・・・それは迷いです。


 確かに自分の都合を祈ることによって、信じることによって適えると謳っている宗教があることも事実ですが、正しい宗教とは言えません。少なくとも浄土真宗ではありません。正しい宗教は例えば「生・老・病・死」という誰1人として避けることのできない問題をなんとしても避けようとするから益々苦しむのであって、避けることのできない問題なら避けずに、逃げずにしっかり受け止めて問題の道理を正しく知ることによって、一時的な解決ではなく一時の癒しでもない、心からのやすらぎ、揺るぎのない安心を頂くことなのです。


 正しい信心を得てそうした生き方をされた方は無数においでになりますが、明治時代の俳人、正岡子規は脊椎カリエスという不治の病で阿鼻叫喚の苦しみの中にあって「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」と病床六尺で述べられています。どのような過酷な境遇にあっても正しい信心をいただくことによって、しっかりと与えられた命を生きることができることを身をもって教えて下さった思いがいたします。


 後生の一大事と申しますが、死はどれだけ嫌おうと、逃げようと、忘れようとしても必ずやってくる必然の姿ですから、まさに後生は私にとっての一大事であります。偶然の中に賜ったこの尊い命です。昨日はもう無いのです。明日も無いのです。今日1日の命なのです。この事に気付かさせていただきますと、私の人生の一大事は"今日をどう生きるか?
死んだらどうなる?"と言うこの事です。どう生きる?と言うことは人によって種々ですから今は触れませんが、死んだらどうなる?と言うことははっきりさせたいのです。


 ある方のご法事の席で、死んだらどうなりますかと問いましたら、その方は灰になりますと答えられました。確かに物理的には灰になるかと思いますが、尊い命を賜り種々様々な苦難に耐えて耐えて一生懸命生き抜いてきて最後に灰になるのではあまりにも情けないではありませんか。仏様から賜った命は仏様へお返しするのです。言い換えれば阿弥陀如来がおいでになるお浄土へ帰るのです。それも死んでからお浄土でなく、今元気なときにそのことの確信を得たいのです。親鸞聖人は「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」(歎異抄第9条)と申されました。私も間違いなく浄土往生させていただける確信を今得たいのです。そのためには仏法聴聞に励むより他に道はないと思います。合掌

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