心は見えないけれど 心づかいは誰にでも見える
仏の願いは見えないけれど 願いの働きは誰でもいただける
4月26日、本山東本願寺での親鸞聖人750回御遠忌法要にお参りさせていただき、御法主の御親教を賜り、私たち一行は越後での御開山聖人の足跡を辿る2泊3日の旅に出ました。4月、5月、11月の3期にわたって御遠忌法要が厳修されますが、この4月に聖人の足跡を辿る旅に出ましたのは、聖人が藤井善信(ふじいよしざね)と還俗をさせられ越後へ流罪の身に処され国府の居多ヶ浜に上陸されたのが800年ほど昔の4月の下旬と聞かされていたからであります。
荒れる春先の日本海は聖人の御苦労を偲ぶに格別でありました。聖人の求道の生活は比叡山という険しい山での20年間の御苦労でありましたが、時の朝廷の無謀な権力により念仏停止の罪により流罪の身になられてからは多分に日本海の影響を受けての生活でありました。ですから聖人の著述の中には人生の迷い、苦しみ、悩みの姿を"海"という言葉で、また阿弥陀如来のお心も"海"という字を付けられて表された文章が多く見られるのであります。
高僧和讃には
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
正信念仏偈には
「如来世に興出したもうゆえは ただ弥陀本願海をとかんとなり 五濁悪時の群生海 如来如実のみことを信ずべし」
教行信証の総序には
「竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船」
このほか多数、"海"の付いたお言葉、例えば"生死大海""無明海""愚痴海""誓願海""法門海"など種々著述の中にご使用されておられます。
ところで私たちは宗教に何を求めているのでしょうか。私の身に起こっている貧困、病い、人間関係等の苦しい問題を宗教に解決を求めていないでしょうか。あるいは楽に極楽浄土への往生を求めていないでしょうか。荒海の影響を多分に受けられた聖人の教えはそのどちらでもないと思います。自分の本質を知る中に如来の本願に出会うことでありました。如来の本願に出会うことによって、一時的な苦の解決ではなく、根本的な人生の迷い、不安を除き、真のやすらぎをいただくことでありました。
それには仏法聴聞の中に三毒の煩悩に汚された恥ずかしい私でしたと気付かされることが大事なことです。そのことに気付かされますと、そうした煩悩具足の私を救わずにはおかない、見捨てはしない、必ず助けると誓って下さる如来の本願をかたじけない、申し訳ありません、有難いかぎりですと味わえた真のやすらぎをいただくことができるのであり、このことが信心をいただいた、お念仏を悦ぶ人の姿であろうと思います。合掌