相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『花の根源はどこにある』(2011年4月 1日)

花の根源はどこにある 根にあるのか
幹にあるのか 葉にあるのか 不思議でならない

 当寺では毎年4月8日にお釈迦様のご誕生を祝して「花まつり」を行っています。読経のあと法話があり、毎年恒例のイベントとして女性プロ演奏者による尺八と琴の邦楽演奏会が行われます。邦楽演奏を心洗われる思いで聞かせていただく度に思うことは、尺八にしろお琴にしろ、あの美しいまろやかな心を癒してくれる音色はどこから起こるのであろうと言うことです。尺八なら長さ一尺八寸の竹筒にあるのか、5つの穴にあるのか、人の吹く力にあるのか?お琴なら弦にあるのか、琴の胴体にあるのか、弾く方の指にあるのか?不思議でならないのです。
 花まつりが開かれる鳳凰殿の大きな窓は桜の花一色となりそれはそれは見事です。人の心をあれほど引きつける桜の花、あの見事な花を咲かせる根源はどこにあるのか?このことも不思議です。根にあるのか、幹であろうか、花の中にあるのだろうか?分かりません。桜は毎年桜の花を咲かせ、梅の花は毎年時期が来れば梅の花をほころばす。このことも不思議でなりません。そんなことを考えていたら、人間に仏性ありと言われるが、一体人間のどこに仏性があるのか考えさせられました。
 眼にあるのか、耳にあるのか、鼻にあるのか、口にあるのか、身にあるのか、心にあるのだろうかと幾ら考えてもそうした眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識にあるわけでもないと思うのです。仏性があるとか無いとか、あるとすればどこにあるのだろうと言う議論は、仏法を聞かせていただくうちに頷けてくると思うのです。仏法聴聞を続ける中に、私が救われたという実感が味わえたとき、仏性ありと言うことが頷けるのでしょう。救われなければ"仏性あり"とは味わえないのではないでしょうか。
 ただ大切なことは、尺八もお琴もたゆまぬ努力と研鑽された人の手によってあの素晴らしい人の心を和ませる音色が現れるように、人間もいくら"仏性あり"と言われても自分自身の心を磨くことに精進しなければ救われることが無いのではと思いがちですが、心を磨くことに精進しようとしても三日坊主で励むことのできない私はどうしたら良いのでしょう。救われることはないのでありましょうか。
 今思うに親鸞聖人が浄土真宗をあらわされた大きな意義がここにあるのです。浄土真宗に会うことができたことは大きな悦びであります。仏法聴聞をなさって、どうか阿弥陀如来の本願に出会って下さい。阿弥陀如来は何一つ精進できない、煩悩が具足している私を哀れんで下さり、必ず見捨てはしないぞ、必ず救いとる。安心しろよと大願を誓って下されたのです。如来の御苦労にただただ感謝して、かたじけありません。有り難いことですと自然とお念仏がこぼれてくると思います。何一つ精進できない私は、ただただ如来にまかせきればそれだけでよかったのです。如来のお働きによって私を私たらしめて下さったのです。
 尺八やお琴が研鑽を積んだ人の手によって、尺八が尺八たらしめられ、お琴がお琴たらしめられるように、如来の本願、如来の大きな救いの手によって、私が救われるのであります。合掌

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