相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『恥を知り 恩を知り 足るを知る』(2011年3月 1日)

恥を知り 恩を知り 足るを知る

 Aさんと雑談を交わしているとき、Aさんが「ところで住職は種々様々な方と接することがあると思いますが、どんな人に好感を持たれ、どのような方が立派な人だと思いますか?」と問われる。躊躇無く「恥を知り、恩を知り、足るを知る人ですね。」と応えました。ちょうどその前日、書斎の整理をしていて、今では大学生か社会人になられていると思いますが八王子の三吉くんと言われる当時高校生が「渋々ごみを拾った自分を恥じる」と言う題名で新聞の読者の広場に投稿された古いスクラップを見つけ、久しぶりに読み直して、立派な人だなぁと感心させられ、教えられ、その後私は立派な人間像とはどんな人であるか真摯に思案をめぐらせていたので躊躇無く返事が出来たのです。
 三吉くんが友人とある公園に行ったとき、年配の清掃員の方々がごみを拾って掃除に励まれていました。その姿を見た友人は周りに落ちているごみを拾い始めたのです。三吉くんは友人に「掃除はあの人達の仕事だから君がすることはないじゃないか。」と言いました。すると友人に「見ているだけというのは最低だよ。」と注意されてしまい、三吉くんは渋々ごみを拾う手伝いをしたのです。しかし後日そのことを思い出したとき、一瞬でも"そこまでして拾う必要はない"と思った自分を心の底から恥じましたという投稿です。
 恥ずかしいという字は耳偏に心と書くのです。このことは人の意見(仏法)をよく耳で聞いて、自分の心を正しく見つめたときの心の姿なのでしょう。三吉くんはそれ以来道に落ちているごみを出来るだけ拾うようにしているとのことです。"恥ずかしい私でした"と気付かれた三吉くんは立派な人だと思うのです。恥を知ることは大切なことなのです。
 親鸞聖人は常にご自身の心を仏法を求める中に厳しく問われ、赤裸々に恥ずかしいご自身の心をいろいろ述べられています。教行信証の信巻にも


「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし。」


と悲歎述懐されておられます。このように恥ずかしい自分に気付かされますとご恩の世界が見えてくるのです。
 私が今日こうして生活が出来るのは両親は言うに及ばず、直接、間接にどれだけ多くの方々の恩恵を受けていることか。更には仏様からも大きな恩恵をいただいております。阿弥陀如来は五劫という長い長い時間をご苦労くだされ、悩み、迷う凡夫、誰しもが無条件で救われる本願の教え。念仏の教えを成就され、悩み、苦しむ衆生を必ず救うぞ。安心しろよとお誓い下されたのです。如来様(仏様)のご苦労、ご恩を深くかたじけない思いでお感じなされた親鸞聖人は九十才で御往生遊ばされる直前まで、世間的なことは口にされず、如来様のご恩の深きことだけを述べられお念仏が絶えることがなかったと伝えられております。
 恥と恩を知ることは大切なことであります。恥と恩を知らない私の今までの生活を振り返ると、食べるもの、着るもの、住まいなどの衣食住から人間関係、仕事の面、何かにつけて不平、不満、愚痴の生活でしたが、恥と恩を知らされますと何事にも勿体ないことです。これで充分満足ですと足るを知らされ、感謝の念に包まれる思いであります。


「足るを知らざる者は、富めりといえど貧し。足るを知るものは、貧しといえど富めり。」


と申された釈尊の金言が嬉しく頷ける思いであります。合掌

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