相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『受け難き人身 聞き難き仏法 今正に得たり 有り難い』(2011年1月 1日)

受け難き人身
聞き難き仏法
今正に得たり 有り難い

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
昨年の暮れ、「生きている 喜び語れ お坊さん」という川柳に出会いました。確かにお坊さんの話はとかく暗い話が多いのかもしれません。釈尊は「人生は苦なり」と申されましたし、死んだらどうなると言うことも、何のために生きるのかと言うことも大事な問題ですから、多少堅苦しい話になる傾向はあるかも分かりませんが、仏の教えは人を救うのが目的、人を幸せにするのが使命ですから、生きている喜びを語るのは当然のことです。生きている喜びを語ると言うよりも、生きる喜びを味わうと言った方が適切でしょうか。
 ただ、間違えられては困ることは、仏の教えは人が苦しみ悩んでいる、病気、貧乏、争い等の問題を解決して救うのではありません。苦しみ悩んでいるその人の心を救うのであり、泣いているその人を幸せにすると言うことです。その為には人間の本質を知らせたり、物事の道理を明らかにさせる必要があり、多生難しく堅苦しい話になることはあるのでしょう。
 よく、"俺の命"とか"私の健康"なんて口にしたり、耳にしますが、俺の命だとか、私の健康だなんて言えるのでしょうか。この命は奇跡としか言いようのない、深い、不可思議なご縁の中にお預かりした命なのです。俺の命ではありません。ですから呼吸ひとつも自分の力ではないのです。飲むこと、食べることも自分の力ではありません。眠ることすら自分の力ではないのです。すべてはお預かりした命であり、健康です。お預かりの命であり、健康ですから、大事に大切に扱わなければいけないのです。
 お預かりものですから、返してくれと催促されれば今晩にも返さないわけにはいかないのです。ですから仏法は「明日はありません」と教えているのです。新しい年を迎えることの出来る保証は誰にもなかったのです。それなのに迎えることが出来たのです。だからめでたいのでしょう。"おめでとうございます"と挨拶をしたくなるのです。
 お預かりした尊い命と自覚をし、"帰命無量寿如来 南無不可思議光"と正信偈を勤めさせていただくとき、親鸞聖人の厳しくも暖かいお心が伝わってくるのです。力強い安らぎと安心感が生きる息吹となって私の心に響いて下さるのです。
生きることに迷い苦しむとき、


「何を迷っているのだ。真実の道は念仏しかないよ。念仏を忘れるなよ。」


と優しく導いて下さるのです。
様々な問題を抱え憂い、悲しみ、涙に沈むとき、


「何も心配しないでいいよ。必ず道は開かれるよ。その悲しみが喜びに変わるときが来るから念仏だけは忘れるなよ。」


と励まして下さるのです。
喜びにあふれ、心うきうき笑顔がこぼれるとき、


「私も嬉しいよ。本当に良かったね。この喜びがいつまでも続くといいね。喜びの念仏がこぼれるね。」


と共に喜んで下さるのです。
お念仏こそ私の生活を潤して下さり、生きる力となって働いて下さり、生きる喜びを与えて下さるのです。
今年は益々仏法を聴聞させていただき、念仏と共に喜びの人生を皆様共々歩ませて頂きたいと思います。合掌

最近の記事

月別アーカイブ