真実の前には
頭を下げるのではなく
頭が下がるのです
祖母がお仏壇の前に座って長いことお詣りをしているので、何で毎日毎日お詣りをするの?何か願い事でもあるの?と尋ねたら、祖母は仏様のお陰で生きる喜びがいただけるのよ。楽しいときも、嬉しいときも、悲しいときも、辛いときもあるけど仏様とお話をしていると色々励ましてくださったり、慰めてくださったり、注意してくださったり、一緒に喜んでくださったり本当に有り難いわ。純ちゃんもちゃんと座ってお詣りしなさいと言うのです。紙に画いた仏様がなぜ有り難いか分からないよと言ったら、祖母は悲しい顔をしてそんなことを言うとお爺さんが怒るわよと言うのです。心なしか写真のお爺さんが怒っているように見えましたが気のせいだと思うのです。久しぶりに寺を訪ねてきた純一くんが、住職私の考えは間違っているでしょうかと尋ねられる。
私はその時「下駄も仏も木のかけら」と言う言葉が思い出され、確かに私たちがお詣りをしている仏様も、足にする下駄も木のかけらと言えば木のかけらです。だから仏像なんて尊いものではないと言うことではないでしょう。一本の木も刻み方によっては人の足に踏まれる下駄となり、刻み方によっては多くの人に拝まれる仏様にもなると言うことで、人間も刻み方ではありませんが心の持ち方、心がけ次第で仏様にもなれば鬼にもなると言うことでしょうと彼に話しをしました。
さらに一般的に宗教というと、救いであるとか、心の安らぎとか、感謝の心、礼拝の心などの概念を並べますが、そうした心になれる根源が何であるかを明らかにしなければ感謝も礼拝も無理にしているに過ぎません。君は紙に画いた仏様がなぜ有り難いのか分からないと言われましたがまさにその通りで、分からないで頭を下げているとしたら無理に頭を下げているに過ぎません。信心と言うことを求めようともせず、信仰心のかけらもなく、仏様に手を合わすこともない現代人は健康で楽しければそれでよい。生活が出来ればそれでよい。時代に流され、社会に流され、人の言動に流され、自主性を失い、ただ喰っちゃ寝、喰っちゃ寝して死んでいく。それでよいのでしょうか。悔いはないのでしょうか。よくぞ人間として生まれることが出来たものだという自覚に立てば人間らしく、納得のいく人生を求めるでしょう。そこに、どう生きるか。何のために生きるのかを問わずにはおられないはずです。
納得のいく人生を歩むには、信仰とか宗教は大事であろうか?礼拝とか合掌は大切なのでしょうか?親鸞聖人は教行信証の行巻に
「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし。」と示されました。
このことは納得のいく真の悦びの人生を味わうには、阿弥陀如来をつつしんで敬う心を深く心にかけて、ナンマンダブツ・ナンマンダブツと念仏申すべきであると、念仏の大道を歩むことを勧めておられるのであります。
ここで問題になるのは、どうしたら阿弥陀如来をつつしんで敬う心になれるかと言うことです。それは君が生前のお爺さんの写真が、何か怒っているように感じたと言われましたが、そのことだと思います。生前のお爺さんの姿、生き方をよく知っているからです。悪いことをしたときは厳しく叱ってくれたこと。良いことをすれば暖かい言葉で心から褒めてくれたこと。いつでもどんなときでも温かく見守り、励まし続けてくれたことを嬉しく感じていたからです。ですから素直にお爺さんの写真には頭が下がるのです。私も本堂への渡り廊下に掲げた先代の肖像画にいつも頭を下げたくなるのです。先代の苦労、生き様をよく知っているからです。いつも私たちを案じて下さっていることが分かるからです。君は絵に画いた仏様と言われるが、仏法を何遍も何遍も聞いて下さい。自分の本当の姿が、煩悩だらけの、偉そうなことを言っても自己中心の私でした。そして身勝手に我が身の除災招福を願う心しかない弱い情けない私でしたと気付かれることと思います。
本当の自分の姿に気付かされたのは、阿弥陀如来のお働きによるものであり自分の努力ではないのです。そうした私でしたと認めざるを得なくなりますと、不思議にこんな私を見守り続け、私の幸せを願い続けて下さっている仏様に感謝せずにはおれなくなると思います。仏様の心がいただけたとき頭を下げるのではなく、頭が下がる思いになるのであります。君のお婆さんのように合掌せずにはおれなくなるのですよと話をさせていただき、お婆さんと一緒に合掌することをお勧めさせていただきました。合掌