相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『幸せは 人とともに 自然とともに 佛とともに生きるなかにあり』(2010年11月 1日)

幸せは 人とともに生きる
自然とともに生きる
佛とともに生きるなかにあり

 人間関係が希薄になってきたことはご葬儀やご法事の姿にも如実に表れています。このまま行くと日本はどうなるのかと心配しているのは私だけでしょうか?
 人間とはたくさんの人や、あらゆるものに支えられて生かされ、親子、兄弟、師弟、友人、同僚などの間柄に生かされている存在。それが人間なのです。逆に言うと支えられて生かされ、間柄に生かされている。このことを忘れたら人間とは言えないと言うことでしょう。人間とは言えない者が"俺の考えが正しい""俺は間違っていない"と我を張るから世の中殺伐として暗くなるのではないでしょうか?
 支えられ、間柄に生かされ、助けられ、許され、我慢されている私でしたと頷くことが出来ますと、そこに人を思いやる心が生まれ、ともに生きることが大切であり、誰とでも協力することが大切でしたと気が付かされ、人とだけではなく自然とともに、動物とともに歩むことがいかに尊いことであったかという心になると思います。
 仏・法・僧の三宝に帰依し救護を請う三帰依文にも


「自ら佛に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに大道を大解して無上意を発さん。
 自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに深く経蔵に入りて智慧海のごとくならん。
 自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに大衆を統理して一切無碍ならん。」



とあり、自分1人救われれば良いのではない。皆とともに、衆生とともに救われたいという心が表されております。親鸞聖人もお念仏をともに悦ぶ者、同じ信心の道をともに歩む者を"御同朋""御同行"と申されました。
 ただ、心すべき事は浄土真宗の教えは信心もお念仏も、如来(佛)より賜った信心でありお念仏でありますから、ともに悦ぶ、ともに歩むのも衆生とともにと言うことだけでは無く、如来とともにと言うことがあるのです。如来とともにという生活を忘れますと煩悩具足の凡夫の身である私の日常生活は"タラ""レバ"の生活。"ハズ""ツモリ"の生活になるのでしょう。


「うちの息子がもう少ししっかりしていてくれタラ・・・」
「うちの嫁がもう少し素直になってくれレバ・・・」
「社員がもう少し頑張ってくれレバこうなるハズだったのに・・・」
「こうなるツモリで期待して応援してきたのに・・・」



と、愚痴がこぼれ心は暗くなるばかりです。如来とともに歩むと言うことは、佛は常に私を心配して下さり「愚痴なんかこぼしても心が暗くなるばかりだよ。愚かなことだよ。」と優しく諫めて下さるのです。調子に乗って有頂天になっていると「人様のお陰、皆の協力の賜だよ。それを忘れずしっかりと地に足をおろして歩めよ。」と注意して下さるのです。悲しみに沈んでいると「私もともに泣いてあげるよ。いつも一緒だよ。元気を出せよ。」と励まして下さるのです。悦びにあるときは佛は「私も嬉しいよ。良かったな。」とともに悦んで下さるのです。
 如来は私が暗闇の中にあるときも、調子に乗って自分を見失っているときも、悲しみの中にあるときも、悦びの中にあるときも、迷ってどう歩むか分からなくなったときも、いつでも私に正しく、力強く、人間らしく生きるとはこうでないのか!と歩む方向をお示し下さるのです。「如来とともに歩む」これほど私に力強さと安心を与えて下さる道はないのではないでしょうか。有り難いことであります。ナムアミダブツ・ナムアミダブツ。合掌

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