どれだけ死を嫌っても、忘れても
死は必ずやってくる
死を意識することは 今を大切に生きることです
1年6ヶ月の闘病生活の末、52歳の若さでお浄土へ旅立たれたA子さんの満中陰法要をお勤めさせていただきました。墓へ埋葬されたあと、ご主人が門前の掲示板に書かれた「生は偶然 死は必然 死を忘れず 今日を生きる」あの言葉はA子が私に呼びかけているように聞こえます。死を忘れず今日を大切に生きて欲しいというA子の願いのように聞こえますと言われました。本当にそうですね。よく気が付かれましたね。A子さんはお浄土からあなた方の幸せを願い続けているのでしょうね。と応え次のような話をさせていただきました。
死を忘れず今日を生きるとはどういうことなのか?死を忘れるからどうでも良いことにああでも無い。こうでも無いと争うのです。ささやかなことに損した得したと目くじらを立てるのです。互いに騙したり騙されたり、裏切ったり裏切られたり、傷つけたり傷つけられたり、これらも皆死を忘れるからです。そして人間不信に陥り悩むのです。悔しくて悔しくて眠れぬ思いをするのです。仕舞いには死を選ぶようにまで落ち込むのです。死を選ぶのも死を忘れているからです。
死を忘れずに生きると言うことは、今を大切に生きることなのです。今を大切に生きようと思うと、人生長生きよりも深く生きようと心するようになるのでしょう。今まで寝たい時に寝て、食べたい時に食べ、本能のままに生きてきたが、賜った尊い人生をこれでは勿体ない。これからは理性的に生きようとされるようになるのでしょう。
今を大切に生きようと過去を反省する時、今までの人生はあまりにも空しく、悲しいことでした。このまま空しく終わったら私の人生は何だったんだ?そうなれば泣いても泣ききれなくなると思います。権力を欲しいままに手にしたあの豊臣秀吉も辞世の句に
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな
なにはのことも 夢のまた夢」
とうたわれ、やり直しのできない人生だけに空しく終わっていく人生を悲しまれたのでしょう。
今を大切に生きると言うことは、仏法を聴聞させていただかないと味わえないのではないでしょうか。仏法を聞かせていただき、阿弥陀如来の本願に出会わない限り、南無阿弥陀仏のお念仏に出会わない限り今を大切に生きるという深い心は味わえないと思うのです。
親鸞聖人も高僧和讃の中に
「本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし」
とうたわれ、阿弥陀如来の本願の働きに出会うことができれば、本願の働きをいただくことができれば、凡夫は凡夫のままですが、空しさを覚えず納得のいく悦びの人生を過ごすことができるとお教え下されました。あなたもどうか奥さんの死の悲しみをご縁に仏法聴聞に励んで下さいとお話しさせていただきました。合掌