相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『生は偶然 死は必然 死を忘れず今日を生きる』(2010年8月 1日)

生は偶然 死は必然
死を忘れず今日を生きる

 会社が倒産し仕事を失い、給料が無くなった上に株でかなりの損失を出し、さらに結婚を前提に3ヶ月ほど交際をしていた彼女からも逃げられ、やりきれない気持ちで親の墓参りに来られた青年が、私の顔を見るなり、人生が厭になりました・・・神仏なんて本当にいるのでしょうか?と言われる。
 私は君が大変つらい立場に立たされて、生きることが厭になったという気持ちはよく分かるよ。気分転換にサマージャンボ宝くじでも買ってみたら?と勧めましたが、彼はそんな宝くじを買っても当たりっこないし、また損をして気分が沈むだけだから買わない。と言う。でももし当たったらどうする?と尋ねると、躍り上がるほど感動すると思う。と言われる。
 そこで私は彼に、君は人生が厭になったと言われたが、人間としてこの世に誕生できたことは宝くじに当たる確率よりはるかに低いのです。なぜなら君のわずか三十三代先までの先祖だけでもこの地球上の人口をはるかに上回る先祖の方々がおいでになったのです。そのうちお一人でもお子さんに恵まれない方がいたら君はこの世に生まれて来られないのですよ。よくぞ人間に生まれてこれたものです。そう思うと厭になったどころではない。どれだけ感動しても感動しきれないのではないでしょうか?不可思議な偶然中の偶然の中に賜った命。お預かりした命なのです。
 それを俺の命だなんて自分の所有物だと錯覚をしてはいないでしょうか?呼吸ひとつも我力に非ず。食べること、飲むことも我力に非ず。眠ることすら我力に非ずなのです。それを俺の命だなんて言うのはおこがましいのです。正にお預かりの命ですから、返せよの催促が来たら今日にもお返ししなければならないのです。"仏法には明日はあるまじき候"とは正にこのことでしょう。それなのに俺の命だと思うから、明日があると思うのです。ですからどうでもよいことにあぁでも無い。こうでも無いと争い。細やかなことに損した得したと目くじらを立てるのでしょう。愚かなことだと思いませんか?
 仕事を失うとか、彼女から逃げられる等、人生は思うようにならないことが次から次へと起こるものです。そうした苦しみ、悩みは仏様が本当の意義ある人生を見出すための試練をお与えくださっているのでしょう。仏様が私に仏法を聴聞させるためのご催促なのでしょう。どうか仏法に耳を傾けてください。自分の本質が見えてくると思います。
 普通だと思っていたがなんと欲の多い私であったか。穏やかな心でと心がけながら気が付けば怒りの心が爆発しているのです。言うまい言うまいとするのに抑えきれずに愚痴がこぼれるのです。そして金にとらわれ、愛にとらわれ、権力にとらわれ何事にも利己主義の恥ずかしい情けない私でしたと知らされると思います。
 しかし如来様は本願をおこされ、こんな私を見捨てはしないぞ。必ず救うと誓って下さっておられるのですから感謝の言葉もないじゃないですか。不思議にナンマンダブツとお念仏申さずにはおれなくなると思います。そこに充実した安らぎと楽な心を味わえる思いがいたします。我が人生素晴らしいと言い切れると思います。
 そんな心境を親鸞聖人は
「煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなわち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ」
(高僧和讃)
とうたわれたのでありましょう。仏法は若き内にたしなめと申されます。君もどうか今から仏法に親しんで意義ある人生を歩んで下さいとお話しさせていただきました。合掌

 

最近の記事

月別アーカイブ