相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『合掌の姿は美しい 笑顔は人の心を和らげる 合掌と笑顔に勝る化粧なし』(2010年7月 1日)

合掌の姿は美しい
笑顔は人の心を和らげる
合掌と笑顔に勝る化粧なし

 あなたは何を頼りに生きていますか?急に問われたら返答に困る方が多いかも分かりません。私たちはそうしたことをいつも深く意識していないかも分かりませんが、必ず何かを頼りに何かを拠り所として生きていると思います。宗教とは私が生きる究極的な意義を教えるものであり、そのためには何が宗となるか、何を拠り所とすべきかを教えてくれるものでありましょう。
 先日、お墓参りに来られた方としばらく立ち話をいたしました。「いつも境内を綺麗になされていますね。来る度に心が洗われます。水屋の言葉にも元気づけられます。」と言われる。そして「私たち夫婦は子供に恵まれず、主人は3年前に癌で53才で亡くなってしまったのです。しかし主人は高額の生命保険に入ってくれていましたので、経済的に何の心配も無く生活ができますので主人に感謝しているのです。水屋に書かれていた"あなたの幸せを願い続けてくださる方がいる"とは正に主人のことなのでしょう。忘れたら罰が当たると思って毎月墓参りに来るのです。」と言われました。
 私はこの方の話を伺って何か考えさせられたのです。人間は何か拠り所を持たずに生きてはいけないが、私の一度しかない大切な人生を託すに値する拠り所とは何であるか?深く考えさせられたのです。私たちが求めている拠り所は本物であろうか?疑問なのです。自分で勝手に決め込んだものを拠り所としてはいないだろうか?すなわち金であったり、権力であったり、家族であったり、愛であったり、友情であったり、仕事であったりしてはいないだろうか?たしかに金も権力も家族も愛も友情も仕事も大きな力になってくれるし、大切な存在ではありますが、そうしたものは本当に何時でも何処でもいかなる場合も私の本当の拠り所となるのか?生きる力になるのか?
生きる力になるどころか、時には金や権力や家族や愛や友情や仕事によって泣かねばならないことも事実であります。そしてそれらのものは必ず失う時が来るのであります。
 以前ある住職から聞かされた話が思い出されます。
銀行の支店長を勤めるAさんは、優しい奥さんと大変利口な誰からも褒められる18歳の大学生の息子さんの3人暮らし。人が羨む幸せな生活を送っていました。しかし悲しいことに息子さんが友達のオートバイを借りて試し乗りをして電柱に激突。即死でした。幸せな平和な家庭が一瞬にして奪われたのです。両親は私たちの人生はこの子の成長だけが生き甲斐でした。もう生きる希望も何もありませんと泣き崩れるのでした。
しかしこのご夫婦は住職のお勧めで熱心な聞法者になられたのです。3回忌の法要の後、父親が住職に
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄・後序)とお教え下されたお言葉がそうでした。そうでしたと素直に聞かせていただけるようになりました。我が子は我が子ではありませんでした。生命を捨ててまで私たちに人生の本当の拠り所を教えてくれた善知識でありました。お陰様でお念仏を悦ぶ身にさせていただき、合掌の生活を送らせていただいていますと笑顔でお話下された。
その麗しい姿に住職も思わず合掌をされたとのことであります。合掌。

 

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