相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『子は親を選べない 子が親を選べたら 私を親に選んでくれるだろうか?』(2010年6月 1日)

子は親を選べない
子が親を選べたら
私を親に選んでくれるだろうか?

 ある食堂でのこと、母親と中学生くらいの男の子。男の子は大きな声で「だからファミレスが良いって言ったのに!こんなもの不味い!食べたくない!」と言って席を立ってしまった。母親も仕方なく店を出て行かれた。一方、お爺さんとお婆さんらしき人と来られていたやはり中学生くらいのお嬢ちゃん。3人で仲良く楽しそうに食事をされ、お嬢ちゃんは美味しかったわ。ごちそうさまと合掌して、お爺さんの器も私が片付けるわと言って運んでいかれた。不味いと言って我が儘に店を出てしまった男の子と、美味しかったと合掌してごちそうさまと言われるお嬢ちゃんと随分と異なりますね。生まれた時は2人とも純真なお子さんであったはずなのに、どうしてこうも異なってくるのでしょうか?
 皆様は自分が子供にとってどんな親であるか考えたことがありますか?子供は親を選べないのです、子供が親を選ぶことができたら、子供は私を親と選んでくれたでしょうか?この頃の人は"子供を作る""子供ができた"という表現をしますが、以前は"子供を授かる"と言ったものです。授かると作るでは大きな違いです。子供は不思議なご縁の中に仏様から賜った、授かった、お預かりした尊い子供なのです。どう育てるのか、どう躾けるのか、自分の感情で怒ったり褒めたりして育ててはいけないのでしょう。今になってもっと早く気が付けば良かったと子供に対して申し訳なく思います。
 子供にとって幸・不幸は、両親が経済的に豊かであるとか、社会的に偉い人であるとか、要求すれば何でも聞いてくれる両親であるなどと言うことではないと思います。両親がしっかりと父として、また母としての役割を認識して、授かった大事な子供という意識を忘れず、2人力を合わせて正しい教育、躾ができる人であると思います。"できちゃった婚"で家庭を持った若い親では、中にはしっかりした立派な親もいますが、子供の躾などとてもできない親が多いのではないかと思うのです。躾どころか育て方も分からないから幼児虐待という事件が後を絶たず、幼い命が奪われるのでしょう。悲しいことです。
 人によって種々な事情があると思いますが、家庭制度の復活を願いたいものです。年寄りとの一緒の生活は嫌なこともあるでしょうが、良いこともあるし、子供を育てるのに教えられることも多いし、自然と躾もできると思うのです。家族制度と言うことはその家庭にお内仏(お仏壇)が心の拠り所として安置され、そこで合掌念仏の中に家族の絆が深まり、仏様や先祖の方々との会話が生まれ、心の安らぎを味わうことができるのでしょう。そうした生活の中には自然と家族の習慣があります。朝起きたらまず顔を洗い、夫婦、親子、兄弟の中でも"おはよう"の挨拶を交わし、ぞれぞれが掃除に励み、その後仏間で静かに合掌し家族揃って正信偈をお勤めし、それから食卓に着き揃って合掌しながら食前の言葉を申し、食事をいただき、終わりにも食後の言葉を合掌して申すのです。その後それぞれが元気に"行ってきます"と挨拶して学校や職場へと出かけるのです。夕時も仏間で揃って合掌し、それから食卓を囲み、今日1日の出来事を語り合う。夜は"明日また元気に会いましょう。おやすみなさい"と挨拶を交わし床につくのです。こうしたお内仏を中心として合掌、念仏のある生活の中には自然と親子の強い絆が深まり、親は子を信頼し、子は親を尊敬するようになるのではないでしょうか。合掌

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