相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『苦しみ、悩み、寂しさを 悦びに変える人あり 悲しみに沈む人あり』(2010年5月 1日)

苦しみ、悩み、寂しさを
悦びに変える人あり
悲しみに沈む人あり

 先日ある方が相談に来られた。どういう相談かと申しますと、その方の甥っ子の父親が3年前に会社を退職してからというもの、外へ出ようともせず昼間っから酒ばっかり飲んでいるので「そんなことでどうするんだ!体をこわすぞ!」と注意をすると生意気言うなと喧嘩になるというのです。甥っ子には弟がいて、弟に相談をすると「親父も一生懸命働いてきて、定年を迎えたのだし好きなようにさせてあげた方が良いよ。あまり文句を言うなよ。」と言うので「おまえは一緒に暮らしていないから気楽にそんなことを言うんだ。」と弟とも喧嘩になってしまう。叔父さんどうしたらいいのか教えてくれと尋ねられて、「兄貴も働くだけで何の趣味もないし、女房も亡くしたから寂しくてその様にだらしなくなるのかな・・・」と答えるだけでなんと応えて良いか分からなかった。そこで住職ならどう応えてくれるかと相談に伺ったと言われるのです。難しい問題ですねと言って次のような話しをさせていただきました。
 偉そうなことを言っても人間は自己中心なのです。自己中心とは自分が一番かわいくて、一番大切なのです。親子と言えどもそうです。親はよく"おまえの為だ"などと言いますが本当でしょうか?人の為と書いて偽りですから何事も自分の為なのではないでしょうか。親子ともに自己中心ですから、自分の為に考えたり思ったりするのでしょう。息子は親の体が心配だと言い、親を変えようとする。しかし変わらない。親は余計な心配をするな。息子は親に従順でいれば良いのだと思うがそうはいかない。当然喧嘩になるのです。怒った顔で鏡を覗いたら鏡の中の顔も怒っています。汚れた顔で鏡を覗いたら鏡の中の顔も汚れています。そんな時どうしますか?鏡を拭く人はいないでしょう。鏡に映った自分の顔の汚れを落とそうとするでしょう。これと同じでお互いに自分を改めようとすることが大切なのです。
 その方法として例えば、相模川の芝桜が見事だと言うから一緒に見に行こうよと誘ってみたり、農園を貸してくれる人がいるので一緒に野菜を作ってみないかと誘ってみるなど。父親も定年を迎え、友を失い、妻も亡くし、趣味もない。酒を飲まずにはおれなかった。しかし飲みながらもこれで良いとは思っていないはずです。どうしたら良いのだと苦しみ悩んでいるはずです。そこに息子の方から散歩に誘ったり、畑仕事を共にしたりすることによって生き甲斐を見つけられるかもしれません。そうしたことによって心に余裕ができますと自分の人生を必ず振り返るものです。以前掲示伝導に「人生やり直しはできないが 見直すことはできる」という法語がありました。まさにこのことが納得のいく人生を歩むのに大切なことだと思います。もう一度元気盛んな頃に戻りたいといくら願っても思ってもそれは無理なことでしょう。やり直しはできないのです。しかし見直すことはできるのです。
 見直すとはどういうことでしょうか。定年を迎え「俺の人生は何だったんだ・・・職を離れれば友も離れた。会社の為に懸命に働き尽くしたがわずかな退職金でハイ、サヨウナラ・・・冷たいものだ。子供も苦労して学校を出し一人前に育てたがそんな親の苦労も知らず、偉そうな顔をして平気で親を批判したり文句まで言う。」このように過去を振り返り、悔やんだり愚痴を言うだけなら見直すとは言えません。当然そこに悦びは感じません。見直すとは「よくぞ種々な困難を乗り越えてこれたものだ。時には悔しくて悔しくて眠れぬ日もあった。時には何もかもに絶望して死にたくなったこともあった。しかしひとつひとつ乗り越え今日あるのはすべてお陰様でした。何事も自分の思うとおりにしたいと思うから悩み苦しんだが、その悩み苦しみのお陰でした。あの苦しみが仏法に出会う機縁になりました。あの苦しみが念佛を悦ぶ身にさせてくださいました。あの苦しみが人間らしく深く生きる道を教えてくださいました。すべてはあの悩み苦しみのお陰でありました。」見直すとはお陰様の世界に気付かされることであります。合掌

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