相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『容姿の化粧は 忘れぬが 心の化粧は 忘れていませんか』(2010年2月 1日)

容姿の化粧は 忘れぬが
心の化粧は 忘れていませんか

 先日、連絡もせずある方を訪ね「ごめんください。」と玄関を開けますと、奥さんがそこにおいでになり、「あら、私まだスッピンで恥ずかしいわ」と言って奥に入ってしまわれて、代わりに旦那さんが出てこられ用件を済ませましたが、帰りの道中、素顔ではなぜ恥ずかしいのか?ありのままの自分を見られるのがそんなに嫌なのか、あるいは化粧をした顔が本当の自分の顔であると錯覚しているのではないかなどと考えていましたら、ふとAさんのことが思い出されました。Aさんは言葉遣いも丁寧で品も良く美しい人だなと常々思っていた人なのですが、いつものように月参りに出かけ、読経中に「馬鹿野郎!早くしろ!何回言わせるんだ!」と息子さんを怒鳴っているAさんの声が聞こえてきてビックリしたことがありました。その後お茶を運んでこられ、私と顔を合わせましたが、何事も無かったという顔をしていました。
 人の心は縁によって常にいろいろ変わり、難しいものだとつくづく思うのです。ですから心の化粧が気になるはずだと思うのですが実際は、容姿の化粧は気になっても、心の化粧は気にならないのはなぜでしょうか?素顔の"素"とは「マユから取り出したばかりの光沢のある白糸」転じて「飾り気がない」「持って生まれたままのもの」と辞書に載っています。持って生まれたままの"生地"に自信がないから化粧をする必要があるのでしょう。すると心が汚いと気付かされれば化粧をする気持ちになるのではないでしょうか。
 以前、寺の掲示板に「人の心はバラの様だ 美しい花を咲かせるが 心にトゲを秘めている」と書かせていただいたことがありました。他人に良く思われたいと思って意識しているときは心に美しい花を咲かせますが、正しく冷静に仏法に照らされて我が心を見させていただくとき、心に鋭いトゲを秘めている私に気付かされます。人が見ていなければ何をするか分からない私です。人の幸せを願う心もありますと言いながら、嫌いな人、利害関係のある人にはそんな心はまったく起きません。それどころかその人が不幸になることを願ってしまう私です。こんなトゲの多い我に気付かされるとき親鸞聖人が厳しく厳しくご自身を見つめられ

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし

虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし


と正像末和讃で悲嘆述懐されておられるお言葉が私の胸を突くのです。何遍も何遍も口ずさんでおりますと、ナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏しかないのであります。お念仏こそ私にとっての心の化粧でありました。合掌

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