相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『健康を前提とせず 死を忘れず 今日を生きる』(2009年12月 1日)

健康を前提とせず
死を忘れず
今日を生きる

 くも膜下出血で呆気なく亡くなられた奥さんの三回忌を勤めたばかりのAさんが墓参りに来られ、私の姿を見て話しかけてこられた。別居している長男夫婦と次男夫婦それに娘夫婦を集め、将来のことを考え、誰かと同居することを提案し話し合ったのですが、3人共まったくその気が無く、死んだら葬式はつとめるから親父は気楽に今まで通り1人で生活した方が良いよと言うだけで話しにならず喧嘩になってしまいました。子供なんて頼りにならないですね。そんな頼りにならない子供たちに財産を残す必要もないし、残しても喧嘩の種になるだけだから、今までの蓄えと年金で生活は出来るのですが、不動産を処分して賃貸マンションにでも入って楽しく暮らそうと思います。いかがなものでしょうか?といわれる。
 喧嘩の種は残したくないという考えは私も良いと思いますが、お子さん達は父親はいつまでも元気であると思いこんでいるから考え無しにそのようにただ言うのでしょう。Aさんもお子さんの言動に不快を感じ、頼りにならない子供たちに財産を残すより換金して面白おかしく暮らしたいと思うのでしょうが、Aさんもお子さん達もお互いが健康であることを前提にして考えています。健康なときは良いのですが病気になったらどうでしょう。呆気なく亡くなられた奥さんがそのことを教えてくださったではないですか。死を忘れず今日を生きることが大切なことだと思います。
 蓮如上人も御文に「もし只今も無常の風来たりて誘いなば、いかなる病苦ににあいてか、空しくなりなんや。まことに死せん時は、かねて頼みおきつる妻子も財宝も我が身にはひとつも合い添うことあるべからず。~中略~これによってただ深く願うべきは後生なり。また頼むべきは弥陀如来なり。信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり。」(御文 1帖目第11通)と申されました。
 確かにひとたび無常の風が吹いてきたなら今まで頼りにしていた妻も子も財産も何ひとつとして身に付かないし、今まで私たちがこれを手にすれば安心だ頼りになると思っていた財産や権力や家族などは残念ながら必ず崩れ、必ず失う存在なのです。ですから蓮如上人はどのような状況にあろうと失うことのない本当に頼りになる弥陀如来を頼りとせよと申されたのです。弥陀如来こそ頼りでありますと我が身にいただくには、仏法聴聞の中に本当の自分に出会わなければ、いただくことは出来ないと思います。仏法に照らされ自分の心が映し出されますと自分の本質が見えてきます。
  見栄ばかり張って生きてきた。
  世間体ばかり気にして生きてきた。
  馬鹿にされまい負けまいと意地を張って生きてきた。
  些細なことに損した得したと目くじらを立てて生きてきた。
  どうでも良いことにああでも無いこうでも無いと争って生きてきた。
  足ることを知らず、不平不満の心で生きてきた。
  何かにつけて怒りの炎を燃やし、愚痴をこぼして生きてきた。
なんとも申し訳ない、恥ずかしい愚かな私でありました。そうした己に気付かされますと、ナンマンダブツ・ナンマンダブツと悶えの念仏しかありません。しかし不思議に悶えの念仏の中にお陰様が見えてくるのです。助けられ我慢され許され通しの私でした。弥陀如来はこんな私を見捨てることなく必ず救うぞと誓ってくださり、この身に慈光を照らし続けてくださっておりました。気が付けば

煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 (煩悩によって眼が曇って気付きませんでしたが、如来の慈光は常にこんな私をも照らしどおしでした。正信偈)

と口ずさんでいる私でした。合掌

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