相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『乾いた土に 雨がしみこむが如 悩む心に 法雨はしみわたる』(2009年7月 1日)

乾いた土に 雨がしみこむが如く
悩む心に 法雨はしみわたる

 よくあの人は信心深いと申しますが、どういう人を言うのでしょうか?
  1)熱心に参詣をする人。
  2)先祖供養を熱心にする人。
  3)神社仏閣によく参る人。
こうした方を信心深いと申すようですが、その内容(心)が問題になるのです。「人より偉くなりたい。」「先祖や水子の祟りが無いように。」「商売繁盛するように。」あるいは「健康な体になれるように。」と自分の欲望を叶えてもらうために熱心に祈るのは信心とは言わないのです。親鸞聖人にそのことを尋ねてみましょう。
「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。」(歎異抄第一章)
 聖人のこのお言葉をよくよく味わいますと、信心とは自分の本質(自己中心の罪深き煩悩だらけの恥ずかしい自分)に気づかされ、こうした恥ずかしい、情けない、愚かな私を助けずにはおかない、必ず救うと誓い続けてくださる阿弥陀如来のお心をなるほどそうであったかと頷き、かたじけない、有難いと味わえる心であると思います。
 如来の本願を信じる。疑いなく信じる。かたじけないと思う心は時々にしろこの身にいただけているように思える時があります。どうして如来の本願を信じる心がこんな愚かな私にいただけたのかと申しますと、私が信じようと努力したからではなさそうです。あえて言えば自分ではどうにもならない大きな悩みのお陰でしょうか。あの時あの悩みが仏法聴聞せずにおれなかった。仏法に解決の道を求めずにおれなかったのです。そこに如来の智慧と慈悲の心が「心配するなよ。私がいつも一緒におるぞ。」と悩む私の心に働いてくださり、私の人生を根底からくつがえさせてくれるような大きな力を、生きる勇気を与えてくださったのです。
 このように私の信心は私が努力して作ったものではないのです。如来より賜ったものです。如来の方からの一方的な働きによって私に授けられたのです。私が無償でいただいたものです。ただのただいただいたのです。ですから聖人の信心も、私の信心も、一文不知の人の信心も、善人の信心も、悪人の信心も、如来より賜わった信心なのでありますから、本質的には皆同じ信心と言えるでしょう。頭が良い人、学問に優れた人、修行に励まれた人だけが得ることができる信心なら、限られた人だけの世界ですが、如来より賜わったすべての人が賜わることができる信心の姿ですから浄土真宗には因幡の源左さん、赤尾の道宗さんや讃岐の庄松さん等たくさんの有名な妙好人が生まれたのです。
 私は現代でも妙好人はたくさんおいでになると思います。当寺の日曜礼拝に7年間欠かさず参詣くださるMさんもそのお一人でしょう。助かる見込みのない大手術を9回も行い、脳の中はカスカスと言われお医者さんからも見放されながらも、往復6キロの道を雨の日も風の日も今日も歩いて参詣くださるのです。寺へ初めて参られた時は何を言っているのか言葉にもならなかったが、今では話されることはゆっくりゆっくりでもよく分かりますし、一言一言に深い重いものがあり、有難い有難いと笑顔が絶えず、体全体から生かされている悦びがにじみ出ているのです。この方にお会いするのが嬉しいと言われる方が大勢いますし、お会いすると自然と何か力を与えていただける思いがするのです。まさに平成の妙好人でしょう。これからも仏法を語り合い、お念仏の道を共に歩みたいと念じています。合掌

最近の記事

月別アーカイブ