自分が正しいという前提で
議論をしても
相手の意見は耳に入らない
核の問題、テロや紛争が世界各地で後を絶たず、誰しもが心を痛め、どうすれば世界の平和、人類共生の道が切り開けるのかという切実な問題を抱える中、「世界平和共生への道を探る」というテーマで浄土真宗本願寺派の大谷光真御門主と元国連事務次長の明石康さんの対談が毎日新聞の朝刊(21.5.18)に掲載され、深い関心を持って読ませていただきました。
明石康元国連事務次長は「仏教は人間の弱さをきちんと見定めていると思う。お互いに限界や欠陥のある人間としての一致点に立てば世の中をより平和により豊かにしていくきっかけになるのではないか。対立、衝突を和らげる1つの大事なクッションとして仏教を含む宗教の役割があると思う。」と述べられました。
大谷光真御門主は「お互いに凡夫であり不完全な人間同士でこの世を築いているのであるから、自分たちが文明で、あれは野蛮だといわれると受け入れ難い。宗教もよその宗教を理解するのは難しいことです。ただ理解できないからといって、軽蔑したり、おとしめたりせず、理解できないなりに尊重することが一番大事である。」と御教示下されました。
大変有り難く読ませていただき、嬉しく思う中に、私も僧侶としての自覚を深め、僧侶としてさらに励まねばと反省させられました。
私はお二人方のお考えを読ませていただく前に、私は平和と人類の共生についてどう考えているのか自分に問うてみました。地球上には種々な民族がいます。そしてその民族はそれぞれ歴史も文化も教育も環境も習慣も政治も宗教もみな異なるのです。そして物質的、資源的に恵まれた豊かな民族もいますが、恵まれない貧しい民族もいるのです。経済的に豊かな国もあれば、貧しい国もあるのです。こうした異なった条件を抱える民族が、皆が俺が俺がといったら争いが起こるのは当然のことであります。人間の"間"とは人は間柄に生きるということでしょう。間柄に生きるということはお互いに思いやりの心、お互いに認め合う心、尊重しあう心が大切であるということだと思います。そのことを忘れて「自分の宗教が正しい。」「自分の思想が正しい。」「自分の政治が正しい。」と頑なに思いを変えなければ、相手の意見や考えは耳に入らないし、そこには相手を軽蔑し相手を従わせようという心しか起きてこないでしょう。それではいくら議論をしても平行線です。
親鸞聖人が深く敬っておられました聖徳太子は「我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ。」(十七条憲法第十条)とお教え下されました。共に凡夫の身であるという自覚が大切であり、そこに立つと人は皆、歴史も文化も教育も環境も習慣も政治も宗教もみな異なるが、されど仲良く、お互いに認め合い助け合う心が生まれるのでしょう。そこに平和な共生の道が開かれると思うのであります。共に凡夫であるという自覚は正しい信心によってお念仏の世界の中に味わえて来るのであります。合掌