相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『出会いの中には教えがいっぱい』(2009年4月 1日)

人生に数々の出会いがあり
種々の出会いがある
出会いの中には教えがいっぱい

 先日、誕生1ヶ月の赤ちゃんを大事に抱っこして法事の相談に来られた方に、「この赤ちゃんは仏様から授かった大事な大事な仏のお子さんですよ!俺の子だなどと思ってはいけません。そしてこの子のお陰で親にさせていただいたのです。親という責任のある座に着かせていただいたのです。責任ある座に着いたということは親風を吹かすことではありません。親の権威をふるうことでもありません。仏様から授かったお子さんと一緒に、納得のいく人生、悔いのない人生、本当の人生を仏法を聞かせていただく中に求めることです。」と話しをさせていただきました。
 坊主風を吹かせて偉そうなことを言ってしまいましたが、その後、私なりに種々考えさせられました。1つには授かったお子さんとの出会いのこと。2つには納得のいく本当の人生とはどういうことかということ。子供は偶然中の偶然の中に親をご縁として尊い命の誕生があったのです。決して子は親を選ぶことは出来ないし、親も子を選ぶことは出来ないのです。気付いたときには不可称、不可説、不可思議としか言いようのない中に親子という強く深い切っても切れない縁で結ばれていたのです。考えてみればこれが親と子の初の出会いであります。私たちは初の両親との出会いから今日に至るまでどれだけの出会いがあったのでしょうか。
 学校生活、職場生活、社会生活を通じて様々な沢山の人と人との出会いがあります。私たちは自分の目で見て、耳で聞き、身体で触れ、心で思うという直接経験する出来事との出会いのほか、テレビ、新聞、人伝えなどからも間接的に種々の出来事との出会いがあります。私たちは深い、有難き、会い難きご縁の中に仏法との出会いがありました。そうした種々の出会いの中に私は育てられています。ですから出会いは大変大事なことなのです。
 今をどう生きる。何のために生きる。と言う簡単には解決できない問題を抱きながら、何のために生きるという問題の大きなヒントになるような出会いがあったなら、それが納得のいく人生、本当の人生の発見と言えるでしょう。何故なら今まで迷い悩んでいたがその出会いによって一筋の光が与えられた。歩むべき方向が定まった。迷いが吹っ切れたという悦びがいただけるからです。
 今、私はしみじみと親鸞聖人と法然上人との出会いを偲んでおります。
「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄第2章)の心境から、法然上人との出会いは、阿弥陀如来の本願との出会いであり、南無阿弥陀仏の念仏との出会いでありました。そこには一点の曇りもなく、ただこの念仏の大道を歩むという確信をいただかれたのでしょう。同じく歎異抄第2章に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。」(歎異抄第2章)と申されました。私も親鸞聖人との出会いを通して聞き難き仏法に出会い、南無阿弥陀仏に出会えましたこの悦びを子に孫に伝えていきたいものであります。合掌

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