相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『お陰様が見えてきた』(2009年3月 1日)

佛の慈光に照らされて
大事なものが見えてきた
お陰様が見えてきた

 裸一貫から苦労を重ね築き上げた事業を72才で息子に譲り、悠々自適にゴルフや旅行に明け暮れている方がいます。羨ましい感じもしない訳ではありませんが、何か気の毒にも思えるのです。案の定その方が先日私に少し話を聞いて欲しいと言われるのです。「若い頃は仕事一筋。会社を大きくすることしか考えなかった。迷いがなかった。しかし今この年になって残りの人生をどう生きるのか、なんのために生きればいいのか考えても分からない。息子に仕事を譲ったのも失敗だったのか、ゴルフをしていても、旅行に出かけても何か空しいのです。」と言われる。
 話を伺って豊臣秀吉の辞世の句が思い出されました。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」こうした句を詠われたときの秀吉の心はさぞ空しく寂しかったことでしょう。いつの世でも誰でも名を遂げ、財を成せば成すほど、何のためにどう生きるかという問題に直面すると、空しさしか残らなくなるようです。
 心が満たされないで終わる人生を空過(くうか)と言いますが、これほど深い悲しみはないと思います。空過は犯罪ではありませんし、他人に申し訳ないと言うことでもありませんが、自分には申し訳ないのです。やり直しの出来ない人生だけに自分に切ないのです。ですからこれほど深い悲しみはないのでしょう。どうしたらこうした空しさから、心満たされる人生を見付けることが出来るのでしょうか。親鸞聖人は「本願力にあいぬれば 空しく過ぐる人ぞなき」(高僧和讃)とお教え下されました。仏法聴聞の中に阿弥陀如来の本願に出会うことが、心満たされる人生が開かれてくると言うことでありましょう。自分のことは自分が一番分かっていると思っていましたが、仏法を聞かせていただき、深く深く味わわせていただく内に、自分ほど分からないものはありませんでした。無明煩悩の恥ずかしい私でしたと自分の本質に近いものが知らされてきますと、無明であるがために空しく、悩み、苦しんでいた私でした。暗く閉じられていた心のために真実が見えなかった私でした。こうした私が阿弥陀如来の智慧の光明に照らされて暗く閉じられていた心が明るく開かれてくる思いであります。そこに自然とナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏がこぼれます。そのお念仏の中にすべてはお陰様でしたとお陰様の世界が見えてくるのです。
よくぞ いつ死んでも不思議でない私が命長らえて今まで過ごせたものだ。
よくぞ こんな我が儘な私を皆が許してくれたものだ。
よくぞ 息子が後を嗣いでくれたものだ。
全てがよくぞよくぞでありました。合掌

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