相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『お念仏こそ心を映す鏡です』(2008年12月 1日)

あなたは自分の心が見えますか
お念仏こそ心を映す鏡です

 境内に立って人生を憂い、物思いにふけっているところに御門徒のAさんが「今日は親父の命日でお墓参りに来ました。」と言って入ってこられ、「ところで住職さん、鏡が姿形だけでなく、心の中も映してくれればいいと思うのですが、住職さんはどう思いますか?」と言われました。私がAさんにどうされましたと問いますと、Aさんは「今年もすぐ終わりますね。昨年の日本の世相は"偽"であると発表されましたが、今年も相も変わらずあらゆるところで嘘、偽りの残念な姿が暴露されました。あの人達は自分の心を見つめようとしないのでしょうか。あの人達は自分の行っていることを恥ずかしいとは思わないのでしょうか。それを思うと鏡が顔の汚れを映すように心の汚れも映してくれたらと思うのです。」とおっしゃる。「本当にそうですね。私も同感ですよ。」と相槌を打ってしばらく話しをさせていただきました。
 「私も前々から、人間は恥をかくと自然と赤面し、汗をかくことがありますし、突然窮地に追い込まれたり、恐ろしいことに遭遇すると青ざめ、足が震えることがありますが、それと同じように人間が非人間的な考えを抱いたり、行おうとすると自然と黒ざめるようなことにでもなれば、自分の行動にブレーキがかかるのではないかと思うことがあるのですよ。あなたが鏡が心の中も映してくれればと思われることと同じですね。ところで鏡には一面鏡の他に三面鏡がありますが、あの三面鏡は一面鏡では見ることが出来なかった私の後ろ姿も映し出してくれます。それでも私の心の中、腹の中までは映してくれません。五面鏡や七面鏡、多面鏡なるものがあっても心の中までは映してくれないでしょう。やはり心の中、腹の中を映しだしてくれる鏡は仏法しかないと思います。仏法を聞かせていただいて聞かせていただいてナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏がこぼれ出るとき、私の心が映し出されるのでしょう。私の心が見えてくるのでしょう。」と私の思いを話しますと、Aさんは怪訝な顔で「仏法は自分の願いを祈ることによって叶えて貰うためにあると思っていましたが仏法を聞かせていただくとどのように私の心が見えてくるのですか?」とおっしゃる。
 「今まで私は人の迷惑や社会の迷惑にあることは何一つもしていない。それどこか困っている人がいれば、泣いている人がいれば、力にもなり助けても来た。私は世のため人のために尽くし、役に立っていると良い気になっていたけれど、仏法を正しく聞かせていただきますと、何かにつけ不平不満がいっぱいの私でした。何時でも何処でも誰にでも温かい思いやりのある言葉で、穏やかな心でと思いながらも、ささやかなことにもすぐ怒りの心を爆発させている私でした。言うまい言うまいと思っても堪えきれずに愚痴をこぼす私でした。人様や社会に迷惑などかけていないと思っていたが、知らず知らず気付かない中に他人様や社会に迷惑をかけどおしの私でした。他人様をどれだけ困らせ、他人様の心をどれだけ不快にし、他人様をどれだけ泣かせてきたのか分からない私でした。浅ましい恥ずかしい自己中心の私でしたと見えてくるのです。こうした慚愧の念にかられますと不思議に今度はこんなに浅ましい恥ずかしい私なのに、なんとたくさんの方々のなんとたくさんの恩恵をいっぱいに受け、生かされ、助けられていたことか、かたじけないことです。勿体ないことです。有難いことですとお陰様の世界が見えてくるのです。お陰様の世界が見えてまいりますと、人生が大きく変わる思いがするのです。何故なら他人様に対する思いやりの心が芽生えるからです。すると人の失敗も、欠点も、自分のことしか考えられない自己中心の汚らわしい心も、私も同じ事ですと大きな心で受け入れることが出来るのです。穏やかな心が現れてくると思うのです。ですから本当の穏やかな、安らぎのある、平和な生活は仏法という鏡を通して常に自分を正しく見つめ、本当の自分に出会うことによってナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏を申さずにはおれなくなることであり、そのお念仏の中に味わえてくるのでしょう。」とお話しさせていただきますと、Aさんも「何かモヤモヤとしたものが吹っ切れました。これから墓参りをして帰ります。また聞かせてください。」とおっしゃってくださり、私も爽やかな気持ちになりました。有難いことです。ナンマンダブツ・ナンマンダブツ 合掌

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