人生の目的は 迷いの闇を晴らす
弥陀の本願に出会うことです
石川遼君という高校1年生の少年が、昨年プロのゴルフの試合で優勝を果たし、今年プロに転向された。本年度のプロゴルフの開幕戦が、三重県のゴルフ場で行われ、プロになったとは言え弱冠16歳の少年が強い雨と風の中3日間のプレーでトップに立ち、最終日に少し崩れ結果は5位であった。5位とは言え大変な成果である。石川君は6歳よりゴルフを始め、小学校6年生の時の作文に20歳までに世界一のゴルファーになりたいと希望を述べていました。充分その可能性を秘めていると思いますし、是非達成して欲しいものです。こうして人生の目標を定めて、努力を続けることは素晴らしいと思いますし、多くの人に希望を与えてくれます。
しかしここで考えなくてはならないことは、「人生の目的」と「人生の目標」は違うと言うことをしっかり峻別することが大切だと言うことです。石川君にとっても、プロゴルファー世界一になることは人生の目標であって、人生の目的ではないはずです。
私達も種々夢を描いて目標を立て、目標に向かって努力をし、そして達成して充実感を味わうことがありますが、「登ってみればさほどでもなき富士の山」なのです。ようやく達成し叶った夢なのに得てみれば何だこれだけのことかと思うことがあるではないですか。目標に到達した達成感、満足感、悦びは一時的なもので、やがて薄れ、記憶だけが残り、時には空しさに変わることすらあるのです。天下統一を果たした豊臣秀吉は
「露と落ち 露と消えぬる 我が身かな 浪華のことは 夢のまた夢」と辞世の歌を残され死んでいったではありませんか。秀吉の心は空しさでいっぱいだったのでしょう。
その点、人生の目的を成就したときの満足感、悦びは、薄れたり、ぼやけたり、色あせることがないのでしょう。親鸞聖人は90年の生涯を通してそのことを明らかにされたのです。人生の生きる目的は苦しみ、悩みの根源であります無明の闇を晴らすことですと明らかにされたのです。その方法は悩み、苦しむすべての衆生を必ず助けると誓ってくださる弥陀の本願に出会うことです。信心をいただき、お念仏を悦ぶ身にさせていただくことですと明らかにお示し下されました。無明の闇が晴らされますと、今まで次から次へと様々なことで悩み、眠れぬ夜もいっぱいあったし、死にたいと思うことも何度かあったが、生きてきて良かった。生きるとはこんなにも素晴らしいものであったか。よくぞよくぞ人間としてこの世に生まれることができたものだと感激の涙の中に真のゆるぎない、色あせない、一時的なものではない安心の悦びの世界が開かれるのでありましょう。合掌