相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『苦しみ辛さに 堪えてたえて 人は人になる』(2008年3月 1日)

苦しみ 辛さに
堪えて たえて
人は 人になる

 赤穂藩主浅野内匠頭は、吉良上野介のひどい仕打ちに堪えることが出来ず、江戸城城中松の廊下で刃傷に及んでしまい、浅野家は断絶、自身は切腹、家臣に多大な影響を与え、大石良雄(内蔵助)を中心とした47人の藩士により、吉良の屋敷を襲い主君の仇を討つと言う赤穂事件にまで発展したのです。たった一人の堪えることの出来なかった心の働きがこのような大きな事件になることもあるのです。
 昔の人も今の人も、肉体の苦痛には堪えられても、精神的な苦痛に堪えることは難しいと言われます。私もそうであろうと思いますが、精神的な苦痛に堪えることが難しいのは今も昔も人間性の上では変わらないと思いますが、環境的には昔と今では大きな違いがあると思うのです。便利で文化的な生活に恵まれた今の私達は、幸せな反面、何かに堪える、我慢をするということが出来なくなってしまったのではないでしょうか。冷暖房施設のある住まいでの生活では暑さ寒さに堪えることなく快適な生活が送れて、それが当然のことのように思ってしまうのです。夜中でも欲しい物があれば明日まで待つことなくコンビニエンスストアーやスーパーマーケットへ行けば手に入るのです。相手が不在で連絡が取れず、諦めざるを得なかったことも、携帯電話の普及で何時でも何処にいても連絡が取れて用事を済ますことが出来るのです。自家用自動車の普及も何時でも思いついたときに好きなところへ行くことが出来るようになりました。昔は好きな野球観戦のために球場まで時間をかけて出かけたのにもかかわらず、雨のため中止のアナウンスにより残念だと思いながらもやむを得ず我慢して帰路についたこともありました。今ではドーム球場のお陰でどんな悪天候でも予定通り試合が行われるので天候の心配も要らないのです。我慢することもないのです。大変便利な世の中ではありますが、これでは我慢する、堪える、時には諦めるという精神が失われてしまうのは当然ではないでしょうか。
 今年も春の彼岸がまいります。どなたも先祖の墓参りに出かけ、墓を掃除され、お花、お線香を手向け、手を合わせてお参りをされ、それで良しと満足されるようですが、彼岸とは私の理想の世界であり、迷い苦しみの世界である此岸に対する言葉であり、大切なことは到彼岸(とうひがん)にあります。私の理想である覚りの境地に到ることが大事なのです。仏教では彼岸の世界に到るためには六波羅密(ろくはらみつ)という六種の実践行が大切であると言われます。その六種のうちのひとつが忍辱(にんにく)であります。忍辱とはあらゆる肉体的、精神的な苦痛に堪え忍ぶことであります。幸せな理想の生活を営むには何事にも堪え忍ぶことが大切であると言うことなのでしょう。しかし昔の人と比べ、恵まれた夢のような文化生活を送っている私は、ささやかな苦痛にも堪えることが出来ず、すぐに怒りの炎を燃やし、他人と言い争いをしてしまうのです。悲しいことです。情けないことだと反省しながらも繰り返してしまうのです。どうしたらよいのでしょうか。春の彼岸を迎え、仏法聴聞の中に如来の声を聞かせていただき、静かに考えてみたいものです。合掌

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