相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『他人の批判も良いが 我が身の批判はなお大事だ』(2008年2月 1日)

他人の批判も良いが
我が身の批判はなお大事だ

 毎日新聞の夕刊に興味深いコラムが載っていました。近藤勝重さんと言われる編集委員の方が書かれたコラムですが、近藤さんが昨年の日本の世相である"偽"の姿から、偽と真の姿にこだわって「本当の本物の人間はいないのか」と周囲の人に聞いてみたそうです。"イチロー選手"と答えた人がいた。"宮沢賢治の雨にも負けずのような人こそ本物だ"と主張する人もいたそうです。近藤さんはイチロー選手こそ本物の野球選手だという意見に異論はないが、近藤さんがこだわっている本物の人間という観点から言えば、"雨にも負けず"がより適っていると言われる。近藤さんは宮沢賢治が雨にも負けずの詩の中で「そう言う者に私はなりたい」と自分自身への言葉で終わっているのが良い。そして最も好感を覚えるのは「自分を勘定に入れずに」というところに本物の人間を見ると述べられていた。私もいたく同感です。
 確かに宮沢賢治は飢饉や地震や冷夏やあらゆる災害にみまわれた岩手県にあって、どのような人生を送られたかが、この詩の中に言い尽くされていると思います。まさに詩の中のような人生を送られ、三十七歳の若さで亡くなられたのです。まさに立派な本物の人間と言えると思います。そこで私は考えさせられました。宮沢賢治が本物の人間の生き方であるならば私はどうなのか?と、深く考えさせられたのです。
 宮沢賢治は「欲はなく、決して怒らず」と言われるが、私はどうだろう?私は常に損得にとらわれ、和顔愛語を何時でも何処でも誰にでも心がけてはいるが、気付いたときには腹の中怒りの炎が燃え盛っているのです。
 「一日玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」と言われるが、私は合掌をし「雨土の恵を思い、品の多少選ばずいただきます」と食前の言葉を申しながらも、多いとか少ないとか、固いとか軟らかいだとか、すぐ文句を言ってしまうのです。
 「あらゆる事を自分を勘定に入れず」と言われるが、私はどうかと思うと、他人のことは勘定に入れず、自分のことしか考えない。自分の都合ばっかり考えている恥ずかしい私なのです。
 私は宮沢賢治とは真反対の生き方をしていたなぁと恥ずかしい限りであります。まさに偽の人生、嘘、偽りの人生であったと認めざるを得ません。そうした私ですから仏法を求めずにおれなかったのです。仏法を求めたから本物の人間になれるとは思いませんが、阿弥陀如来がすべての衆生を救わんがために五劫という永い永い時間を思惟し続け、永劫が間修行なされ、四十八種の大願をおこされ、すべての衆生が救われなければ私は仏にならないとお誓いくだされたその如来様のご苦労を思うと、如来様の前にはとても頭が上がらないのです。すべての衆生を助けると誓われるのですから、この私も間違いなく救ってくださるでしょう。そう思うと、如来様の前にただただ頭を下げ、かたじけない、申し訳ないの思いでいっぱいになるのです。すると不思議にナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏がこぼれるのです。この不思議なお念仏の中に、本物の人間にはなれませんが、私は人生の真の幸福、悦びを味わわせていただくことができる思いがするのです。合掌

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