相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『大いなる 恵みの中に 賜りし 尊き命 生かしきるらん』(2008年1月 1日)

大いなる 恵みの中に 賜りし
尊き命 生かしきるらん

 明けましておめでとうございます。一夜明けて新年を迎えると、新しい心が芽生え、今年こそと明るい希望が燃えてくるのは不思議ですし、有り難いことです。日本漢字能力検定協会が昨年の日本の世相を表す漢字を『偽』と発表されました。老舗と呼ばれる歴史ある有名店が次々と食品偽装をしていたことが発覚し、地震国日本では一番心配な建築強度偽装も今年もまた大問題となりました。暮らしに直結することなので由々しき問題です。
 京都の清水寺の貫首が見事に『偽』の一字を書かれ、こうした字が日本の世相を表すとは嘆かわしいとコメントされました。『偽』とは"いつわる"と言うことです。人の為と書いて「いつわる」よくよく考えねばならないことです。政治家は国の為、国民の為、市民の為と言っては汚職にまみれている。会社では上司が部下に、怒りたくはないがお前の為を思い注意するのだと言う。幼児虐待もよく報道されます。親は子にお前が可愛いから、お前の将来の為に厳しく叱るのだという。本当でしょうか?結局は自分の為なのではないでしょうか。清水寺の貫首が『偽』という字が今の日本の世相を表しているのは嘆かわしいと申されましたが、昔の日本はどうであったのでしょう。



聖徳太子は「世間虚仮 唯仏是真」(せけんこけ、ゆいぶつぜしん。世の中は虚と偽りです。唯、仏のみ真であります。)と申されました。



親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」(歎異抄・後序)と、



さらに聖人はこうも申されました。「真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり。偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し。」(教行信証化身土文類六・本)



こうしてみると、昔も今と変わらず虚と偽の世であったのでしょう。人の心は今も昔もそう変わるものではないのでしょう。
 しかし、思うに昔の人は「人の振り見て我が振り直せ」で、他人の行動の善悪をよく見て、自分のいたらなさを反省したものですが、今の人は自分を見つめたり、反省しようとせず、他人の批判や攻撃ばかりが上手になったと思うのです。この事はとても悲しいことです。昔の人は自分に厳しかったと思うのです。親鸞聖人も自らの本性を厳しくさらけ出し、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(正像末和讃・悲歎述懐)と、ご自身を厳しくいましめられております。だからこそ真実の道を求めずにおれなかったのでしょう。真に生き甲斐のある生活を真摯に求められ、阿弥陀如来の限りない「いのち」と「光」に呼び覚まされ、真の生き甲斐のある生活を、念仏(南無阿弥陀仏)の中に味わられたのであります。その深い感動の心をうたわずにはおれなかった、それが正信偈であります。私達も『偽』とは私のことでありましたと仏法聴聞の中に気付かさせていただき、不思議なご縁で賜った尊い命、大切な人生を偽りの人生ではなく、真実の幸福な人生に向かって歩みたいものです。そうした心を、



「大いなる 恵みの中に 賜りし 尊き命 生かしきるらん」



と歌わせていただきました。合掌

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