相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『如来の本願を、この身にいただく』(2007年9月 1日)

ゆるぎ無い 心のやすらぎは
如来(佛)の本願を この身にいただくことです

 家庭は円満、仕事は順調、何事も上手く事が運び、楽しい人生を過ごせるときもありますが、突然病に倒れたり、失業に追い込まれたり、人間関係がこじれたり、次々と不都合なことが起こり、悩み苦しむときもあります。何事も自分の都合で事を運ぼうとするからそのようなことになるのでしょう。自分の都合に合わせて、見たり、聞いたり、考えたりすれば、欲と欲がぶつかり合い、騙し騙され、裏切り裏切られ、心傷つき悶々とした日を過ごさなければならなくなるのは当然のことでありましょう。しかしこうした悩み苦しみを味わうからこそ「どう生きる」「何を頼りに生きる」という人生の一大事が問われるのであります。


 人はよく、金さえつかめれば、権力を得れば、健康でさえあれば、幸せな人生を歩めると言いますが、本当にそうでしょうか。以前にも書かせていただきましたが、墓参りに来られた方が、寺のお手伝いさんに「マッチありがとう!ライターを持ってきたのに使えなかったの。」という甲高い女性の声が私の耳に入ってきました。何でもない会話ですが、その女性が「ライターを持ってきたのに使えなかったの」と言われたことに私は深く考えさせられたのです。その女性は墓参りをしようと花を求め、お線香を用意し、ライターを持ってこれで良しと思って来られたのでしょう。しかしお線香に火を付けようとしたらライターの火が着かなかったのです。役に立たなかったのです。私達の人生もこれとよく似ているのではないでしょうか。金だ、権力だ、健康だと言いますが、これらは必ず崩れ、失うものです。そうしたものは本当に頼りになるとは言えないのです。そうしたものにのみしがみついておりますと、いざというとき何の役にも立たず、泣かねばならなくなるのです。


 それでは何時でも何処でも如何なる場合でも頼りになってくれるものはあるのでしょうか。蓮如上人は「お文一帖の十一 電光朝露」(意訳)で
「人間はただ雷光朝露の夢幻の間の楽しみです。たとえ、栄華栄耀の思うままの人生を送れたとしても、それは50年ないし100年のことです。もしたった今、無常の風が吹いて来れば、どんな病気で苦しみ死んでいくことか。そして死んでいくときはかねてより頼みにしていた妻子も財産も、何1つ力にはなってくれないし、三途の大河をたった1人で寂しく渡っていくことになるのです。だからこそ、今こそ深く願い求めなければならないのは後生であります。また、本当に頼みにできるのは阿弥陀如来だけであります。そして阿弥陀如来の本願をいただいて参るところは安養の浄土と思うことです。」と御教示くださいました。


 秋の彼岸を迎えます。蓮如上人が申された、頼みとできる阿弥陀如来の苦しみ悩める人を必ず救うという本願をこの身にいただき、怒りも悩みも争いもない悦びと感謝の心が豊かに満ちた彼岸の世界を味わいたいものです。合掌

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