相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『独生独死独去独来』(2007年2月 1日)

独生 独死 独去 独来
人生は苦しく寂しい

 カレンダーに載っている「生まれるときも一人、去るときも一人」と書かれた法語を見て、小学校6年生のお孫さんが、「生まれるときも死ぬときも一人と言うことでしょう!」とお婆さんに言われた。お婆さんは孫がその言葉に疑問を抱き、自分の考えを述べられたことに嬉しくなり、「そうだ、そうだ、その通りだよ。」と応えたところ、そばにいた父親が「もっともっと深い意味があると思うよ。」と口をはさまれたそうです。お婆さんはこの事を息子や孫にどう話したらよいのでしょうと、秦野別院の定例法話のあとの座談会で切り出されました。「生まれるときも一人、去るときも一人」この言葉はお経(大無量寿経)の中の「独生独死独去独来」の言葉を表現を変えて言われたと思いますが、この事に、"何も感じない人""当たり前と受け取る人""本当にそうだなぁと感ずる人"など、種々感じ方は違うと思いますが、事実人は独り生まれ、独り死に、独り来たりて、独り去っていかねばならない何とも寂しい限りであります。以前、白血病で我が子を亡くされた母親が、初七日のあとに「代わりに死んであげたかった。一緒に死にたかった。」と涙しながら呟かれたことが思い出されます。気持ちはよく分かりますが、老・病・死に対しては親子であっても、兄弟であっても、どうにもならないのです。決して変わることはできないのです。不可思議としか言いようのない偶然の中の偶然の中に授かった尊い命でありますが、死は必然中の必然であります。その死はどれだけ大勢の人に惜しまれ、たくさんの方々に会葬していただいても、誰一人悲しむ人もなく、見送ってくれる人がいなくとも、どれだけの財産を得ようと、どれだけの権力をつかもうと、無一文で名もない人も、死んでいくときはみな同じです。全てを残して独り寂しく死んでいくのです。だからこそこの事に気がつけば「今をどう生きるか?」が問われるのです。
 一日一日を一刻一刻を大切に、他人との深いご縁を大切に、全ての人に温かい思いやりの心を大切に、充実した人生を送りたいと思うのです。しかし思うだけで実行が伴わない自分が恥ずかしく悲しい限りであります。むざむざと2度とない今日を過ごしている私ですが、いついつまでも永らえたいのです。しかし一度無常の風が吹いてくればどんな名医に診てもらってもどうにもならないのです。死をどれだけ避けようと、逃げようと、忘れようとしても必ず訪れるのです。「死んだらどうなる?」これが大きな問題です。親鸞聖人は「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土どへはまいるべきなり。」(歎異抄第9条)とお念仏の中に力強く申されました。仏法聴聞の中に信心を頂きますと、念仏の中に阿弥陀如来に全てお任せの世界が開かれる思いであります。阿弥陀様にいだかれながら、阿弥陀様と共に彼岸の世界へ、懐かしい人が待っていてくださるお浄土へ参らせていただくのです。倶会一処の世界が待っていてくださると思うと、寂しい中にも安心の境地であります。合掌

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