相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『一年の計は元旦にあり』(2007年1月 1日)

愚かなる
我一人を あわれみて
照らしつづけん 弥陀の光輪

 「一年の計は元旦にあり」と言われます。元旦の元は「もと」の意、初めです。旦は太陽が昇る早朝の意とされますから、元旦は1月1日の早朝を言うのであって、昼は元旦ではないのです。自然界に朝が始まっていても、寝坊をしている人には元旦はないのです。当然一年の計も無いと言うことになります。正月だけでなく、常に早い朝の目覚めが大切なのです。ですから昔から、「早起きは三文の徳」「早寝早起き病知らず」などと言われるのでしょう。早朝の良い目覚めは大事なのです。目覚めるとは眠りから覚めると言うことでありますが、迷いから覚める、自分の本質に目覚めると言うことがあるのです。そうした深い意の目覚めの中に「一年の計は元旦にあり」と言われる一年の計とはどういう事なのかを考えるとき、私には一年の計とは一年の目標と聞こえるのです。例えば、「今年こそマイホームを造ろう」「今年こそ師範の資格を取ろう」「今年こそ大会で優勝しよう」など、こうして夢を持つこと、目標を掲げることを否定するわけではありませんが、眺めれば美しい富士山も、登ってみればこんなものか、さほどでもないと感ずるように、目標というものは達成した瞬間の喜びは大きいが、時間と共に喜びは失せていき、空しさ、苦しささえ感ずるようになるのです。目標とはそう言うものです。
 師走の押し迫った日曜日の夕方、私の親しい友人の息子さんが結婚をしましたと挨拶に来られました。これから二人で力を合わせ、庭のある家を建て、人より少しは良い車に乗り、社会的にも信頼される地位が得られるように目標を立てて頑張りますと言われる。私は二人にはこれからの人生を辛く苦しいことが多々あるでしょうが、二人力を合わせてその目標達成に無理せず歩んで欲しいと月並みなことを言って励ましました。こうした若い方が夢を描き、目標を持つことは大事なことですし、目標に向かって輝いている人には心から応援したくなりますが、私のような年齢になってきますと、そうした目標を達成することが人生の幸せとは思えなくなるのです。目標を持つことと同時に人生の目的をはっきりさせたいのです。目標と目的は違うのです。目標だけでは、薄氷の上を渡っていく思いがするのです。何故なら、経済的に恵まれ、良い家に住み、高級車を乗り回し、社会的に権力を持つことが、人生の目標、人生の成功者、人生の幸せのように思いがちですが、毎日のように新聞テレビ等で結局は金や権力で泣かねばならない人たちが報道されるではないですか。金や権力など私たちが本能的に求め欲しがるものは必ず崩れ失うからです。私は人生の目的を間違えず見失わず歩まねば、人間として生まれることができた喜びは味わえないと思うのです。
 こんな事がありました。先代住職の葬式を勤めてくださった福井県勝山の浄願寺さんのご住職が7月13日にお亡くなりになられ、お葬式にお参りできませんでしたので、年内にはお参りをさせていただきたいと12月13日のご命日にお焼香に行ってまいりました。その帰り新幹線の米原駅で偶然十数年ぶりに友に出会ったのです。何か元気がないので、「思いがけないところでお会いしたがどうしましたか」と問うと、「事業に失敗し会社だけでなく家も5年前に建てたマンションも全て人手に渡ってしまった。女房とも別れてしまった。仕方がないのでN市で弟が小さいながら事業を行っているのでしばらく世話になろうと弟のところへ行くところです。」と言われる。一時は事業も大きく伸ばし威勢が良かったのにまさに盛者必衰のことわりを表すだなと複雑な気持ちになりました。「ところでご住職はどちらへ」と聞かれる。「勝山の帰りで寺に戻るのです」というと、「帰るべき処がある人は幸せだな」と寂しく言われた。帰りの新幹線の中で彼が言われた「帰るべき処がある人は幸せだな」という言葉が耳を離れませんでした。そんな中しみじみと「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。」と、三帰依文の言葉を口ずさみながら仏法に出会えた喜びをかみしめさせていただきました。
 釈尊は「人生は苦なり」と申されましたし、歴史上の偉人君子の中で「人生は楽である」と言われた人を私は知りません。確かに人生は苦の連続でしょう。経済的な問題で頭を抱え、病に倒れ、なんで俺だけこんな病気になるんだとベッドの中で涙を流し、人間関係が崩れ夜も眠れぬ思いをし、ニュースを見ても聞いても、暗い、恐ろしい、悲しいことばかりではありませんか。こんな苦しい人生を何故生きねばならないのか。年間3万人以上の自殺者。未遂者はその何倍もいると言われる。悲しいが頷けます。何の為に生きるのか?人生の目的は?何処へ向かって歩んでいるのか?問わずにはおれないこの問題の解決が欲しいのです。この問いに応えてくれるのは仏法しかありません。それも仏法を聴聞して聴聞して聴聞の中に人生の生きる解決が見いだされ生きる目的がはっきりするのであります。
 何の為に生きるのか?人生の目的は何か?阿弥陀如来の本願に出会う為に生きるのです。この事を親鸞聖人は明解にお示し下されました。「難思の弘誓は難度海を度する大船。無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。」(教行信証 総序)大変難しい名文であります。このまま何度も何度も口吟み味わうのがよいのですが、私なりの味わいは、凡夫の私にはとても思いはかることのできない広大な阿弥陀如来の本願は、様々な悩み、苦しみ、不安な人生はまさに荒れ狂う荒海のようだが、そんな荒海を安心して航海を任せきれる大船であり、阿弥陀如来の智慧の光明は仏智を疑う事による深い迷いの暗闇の人生に安心して歩めるように明るく照らし続けてくださっている太陽の光のようです。と聖人が阿弥陀如来の本願に出会えた揺るぎない喜びを、なんと有り難いことか感謝に堪えない思いをこのように表現されたのでしょう。何処へ向かって歩むのか?何処へ帰るのか?懐かしい人が待っていてくださる安養の浄土への歩みです。お浄土へ帰らせていただくのです。
 聖人は歎異抄の中に「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、 ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」(歎異抄第九章)と、悩み苦しみの多い人生なのに、いつまでも生きたいと思うのですが、死ぬ縁が来れば致し方もないのです。その時は安養の浄土へまいらさせていただきますと確信を持って言い切られております。人生の目的を阿弥陀如来の本願に出会い、如来の光明に照らされ慈悲の心にいだかれている私であったと気がつかさせていただき、念仏の中に生まれてきて良かったと思える人生を歩みたいものです。合掌

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