相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『我が職は天与の職 自分の本質を知り自分の職に励む』(2006年11月 1日)


我が職は 天与の職 自分の本質を知り 自分の職に励む

 毎日新聞の余録欄に、「職業」を表す英語の「ボケーション」の語源はラテン語の「呼び声」という。「コール(呼ぶ)」の進行形の「コーリング」も職業を表す。つまり人は神様からの呼び声に応じて職業につくのだ。それは授けられた使命や天職という意味合いが強かった。と説明されていました。読ませていただいて嬉しくなりました。
 私も以前から仕事は自分で選んで就いた仕事ではあるが、与えられた仕事、天与の仕事であると考えてきました。ですからお金を稼ぐことも大切ですが、それだけではなく、世の中の要求があるから成り立つ、与えられた天与の仕事であると言うことを忘れてはならないし、世の中の要求に応えると言うことを忘れてはならないと他人にも話をしてきましたので、外国にもそうした心があることを知って嬉しかったのです。
 私は毎月定期的にある品物を送っていただいていますが、新聞を読ませていただいた10月25日にその品物が届けられ、いつも月初めの6日に送られてくるのに変だなと思いよく見ると、高島○○と名前が違うのです。住所もまったく違う住所でした。"高島"だけを見て私のところと思いこんでしまったのでしょう。配達員の方を追いかけ、「君!この品は私のところでは無いですよ」と言うと、小さな声で「あぁすいません」とだけ言って品物を受け取って帰られたのです。届けられたときも「届け物です判を」と無愛想な小さな声でした。何か暗さを感じ、仕事に対する情熱が感じられなかったのです。彼は配達の仕事が天与の仕事であると気付いていないのだなと思うと寂しい気がしました。しかしその時、「人の振り見て我が振り直せ」と言われるが自分も天与の仕事であることを忘れ、他人に不快な思いをさせていることが多々あるのではないかと反省させられたのです。反省と同時に今まで一度も気にしたことがなかったのに、自分も天与の仕事を忘れている。その自分とはなんであるのか。なぜ"分"という字を使うのであろうか?と疑問が湧いたのです。早速辞書で調べますと、分とは1:区別、2:割り当て、3:分際、4:つとめ・本分、5:種類、6:程度、7:生まれつき、8:運命と種々な意味があるのです。3の分際とは身の程を知るということであろうし、4のつとめは自分のつとめ、本分を天の声を聞いて守る、励むと言うことでしょう。してみると、自分とは身の程を知って分を守ることが大切なことであると言うことでしょう。確かに一合のコップには一合の水しか入らないのです。私は身の程を知らず、欲が多く、自分の器を過大に評価するから、何かにつけて苦しみ、悩みが多いのであったと知らされました、恥ずかしいことであります。
 親鸞聖人は、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実の我が身にて 清浄の心はさらになし」と、どこまでもどこまでも煩悩具足の凡夫と厳しく自分の本質を見つめられたのです。そうして聖人はそうした凡夫を必ず救うと誓われる阿弥陀如来の五却思惟のご苦労に対し、「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」とうたわれ、念仏の中に生きる意義と悦びを見いだされ、念仏の悦びを今に私たちに伝え続けてくださっております。かたじけないことです。聖人の教えにいよいよ耳を傾けさせていただかねばと深く

 

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