相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『願われて生かされている私』(2006年9月 1日)

製造業を営む友人が久しぶりに訪ねてこられた。元気がないのでどうしましたと尋ねると、事業が失敗し、5年前建てた自慢の自宅まで人手に渡り、今は家族3人でアパート暮らしとのこと。「それにしても世の中冷たいですね・・・」と言われる。「銀行は事業が順調なときは"借りてくれ、借りてくれ"と言うので、付き合いも大切と思い必要もないのに借りたりして銀行に貢献もしてきたのに、本当に困って必要なときは体よく断られて貸してはくれない。友人が困っているときは催促無しのあるとき払いで良いよと援助をしたこともあるのに、私が困ったときはみんな自分のところも火の車でとても無理だと言って誰も助けてはくれない。」と、ため息ながら話され、「もう疲れた、死にたい」と言われる。私は沈み込んでいる彼にはきついかとも思いましたが、君は今、世間が冷たいので事業が失敗し、疲れ果て死にたいほど苦しんでいると言われるが、その苦しみの原因は世間が冷たいのではなく、君の心がその苦しみを生んでいるのだと思いますよ。事業が倒産し、自慢の家まで失い、死にたくなるのもよく分かりますが、釈尊は"人生は苦なり"と申されました。人間として生まれて、悩み苦しみのない人は一人もいないのです。人間は何か成功すれば自惚れ、失敗すれば途端に落ち込んでしまう。損得ばかりにとらわれ、損をすればなんとしても取り返そうともがき、得をすれば自分の手柄と喜んでいる。他人に褒められれば有頂天になり、他人にけなされれば自信を失ってしまう。こうした姿は本当の自分に目覚めないからでしょう。本当の自分に目覚めないと、何か不利なことが起きると祈祷や占いに頼り、いよいよ迷いの底に沈んでいくようです。人間は私たちが思っているよりももっともっと深く尊い存在なのです。不可称・不可説・不可思議としか言いようのない中に、仏様から大きな大きな願いをかけられ、沢山の人の期待の中に賜った尊い存在なのです。仏様の願いとはどんな逆境にあろうと強く、明るく、深く、充実した人生を歩んで欲しいとの願いです。その仏様の願いは悩み苦しみの姿となって内から私の深い心に呼びかけられているのです。ナムアミダブツの声となって外から私の深い心に呼びかけ通しなのです。何かに悩み苦しむことと、何かに悩み苦しんでいる自己そのものを悩むこととは違うのです。悩み苦しんでいる自己、すなわち何故そんなことで私は悩むのかと自己が問題になるとき、仏様の呼びかけに気がつかされるのでしょう。仏様の呼びかけに目を覚ましたとき初めて、強く、明るく、深く生きる力が湧いてくるのです。死にたいと悲観的にならずに、生きる道はすでに開かれています。希望を持って1日1日をしっかりと歩んでくださいと励まさせていただきました。
合掌

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