相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『お札やお祓い占いに頼ろうとするその心が迷いなのです』(2006年8月 1日)

人間の心の深いところには、意義があるなら喜んで苦労もします。損することも厭いませんという立派な心があるのですが、浅いところでは苦労はしたくない、楽をしたい、損はごめんだ、得をしたいと、得をすることばかり考えているようです。ですから交通安全や商売繁盛等のお札や、お祓い、占い等に頼る人が大勢いるのでしょう。六曜説(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)や、方位、方角にこだわり惑わされる人が多いのでしょう。
 先日、親しい友人が車で迎えに来てくださり蓼科へ行ってきました。私は彼に「安全運転でお願いしますよ!」と言うと、彼は「大丈夫ですよ!先日、横道から不意に出てきた自転車と事故を起こし、示談で済んだので良かったけれど、3ヶ月の免停が解除されたばかりですから、今では本当に安全運転を心がけていますから。」と言われた。彼の車には○○神社のお札が下がっていました。私が「お札は効果が無かったですね。」と冷やかすと、彼は「○○神社は駄目だなぁ。今度は△△神社のお札にしよう。」と言われる。私はある本で読んだ、ある先生の話を思い出し、ある偉い先生が講演を頼まれて出かけたとき、駅に迎えに出られていた車に乗ろうとしたら、その車に交通安全のお札が下がっているのを見て、「わしはお札に頼らねば運転できないような未熟者の運転する車には恐くて乗れん。」と言われて降りてしまわれたという話をすると、「なるほどね、本当にそうですね」と頷いてくれました。
 こんな話を日曜礼拝でさせていただいたら、茶を飲みながらの座談の席で工務店を経営している方が、「以前、地鎮祭で神主さんにお祓いをしていただき神主さんを車でお送りするとき事故を起こしてしまいましたよ。それだけではなく、職人が工事中に大怪我をしたりで大変でした。お祓いなんてしても駄目ですね。今では笑い話ですが。」と笑いながら言われました。
 私たちは何事も自分に都合の良いことばかりを求め、そのためにお札や、お祓い、占い、あるいは六曜とか方位・方角に頼ろうとしますが、それが迷いなのです。仏教は因(いん)縁(ねん)果(か)の法則を説かれるのです。因は直接の原因であり、縁は間接の原因です。例えば種を蒔いただけでは実りはないのです。そこに、太陽の光熱、水、肥料、人の世話など、種々な条件が整って実りがあるのです。仏教という立派な教えがあっても、ながめているだけでは意味がないのです。その立派な教えを信じて行ずる中に証しが、頷ける世界が開かれるのであります。
 親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」(歎異抄・後序)と、御教示くださいました。深く深く味わってみたいものです。

合掌

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