相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『見てござる、聞いてござる』(2006年5月 1日)

見てござる 聞いてござる 全て仏様は お見通し

 大変温厚な、人柄の良い、誰からも慕われるAさんが亡くなられました。私と同年の64才でした。彼との思い出は大きく深いものがあります。癌を患い体調を崩される前は、毎年夏になると八ヶ岳や蓼科方面のゴルフツアーの計画を綿密に立ててくださり、楽しい、楽しいゴルフツアーをさせていただきました。日曜礼拝にもよく参詣くださり、お茶の時など温かい雰囲気を醸し出してくださいました。
 今、懐かしく彼を偲びあれこれ回想する中に、他人の悪口を言ったことがない彼が、こんなことを言われたことを思い出しました。「大きな事業を成し、地域では著名人で通り、誰からも紳士と言われるBさんが、一緒にゴルフをしたときOBゾーンに入ったボールを足で転がし、"あ!セーフだった"と言ってスコアをごまかすんですよ!他人は騙せても自分は騙せないのにね」と。私もその時「見てござる、聞いてござる」という教えを親から聞かされ育てられたことなどの話をさせていただいたことが思い出されたのです。
 子供の頃は物の少ない時代でした。お客様のためにとっておいたお菓子を盗み食いしたり、自分の粗相で物を壊しても知らん顔をしたり、乱暴な言葉や他人の悪口を言ったりすると、「"見てござる、聞いてござる"他人を騙せても、自分をごまかすことは出来ないでしょ。仏様はいつでも見ているのですよ。聞いているのですよ。」と注意されたことを思い出し、話をさせていただいたことがあったのです。
 それなのに今でも私は、他人が見ていなければはしたないことも平気でするのです。他人が見ていなければ何をするか分からない私なのです。しかしお陰様で"見てござる、聞いてござる"と教えられて育てられましたので、そうした心がおきると、恥ずかしい自分だなと慎む心が起きてきて自然とナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏がこぼれてくるのです。何をしても恥ずかしい自分に気がつかず、慎む心が起きない人を恥知らずと申しますが、恥知らずの私が恥ずかしい私でしたと知らしめさせてくださるのは仏法です。仏法聴聞しかないのです。恥ずかしいという字は耳偏に心と書くのですから、仏法をよくよく耳で聞いて、我が心を見つめたときに知らされる相であります。
 恥ずかしい、愚かな自分でしたと知らされ、お念仏を悦ぶ身にさせていただくことこそ、真の安らぎの人生でありましょう。

合掌

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