相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『楽の種を蒔いているつもりが、苦の種を蒔いている』(2006年2月 1日)

楽の種を蒔いているつもりが 苦の種を蒔いている

 近頃の世相を見るに、人は何事も"善か悪か""正か否か""敵か味方か""損か得か"と2分別してしか物事を見ようとはせず、正しく物事の相を見たり考えたり出来なくなってしまったようです。そして人は楽することを好み、苦労することを嫌います。得することを喜び、損することは好まず、これをしたら楽になるのか、苦しむことになるのか。これをしたら得をするのか、損をするのかという計算ばかりが働き、その計算の挙げ句、満足と言うことを知らず、不足、不満の人生を送ることになり、自分も苦しみ、社会も苦しむことになるのであります。
 最近の典型では、マンション、ホテルの耐震偽装問題で、社会を大きな不安に陥れたヒューザーの小嶋氏や、姉歯設計士、木村建設等であり、学生時代からマネーゲームに走り、粉飾決済をしてまで世界一の会社作りを企て、金さえあればなんでも出来ると錯覚をし、経済界を混乱させたホリエモンでありましょう。拝金主義の若者を時代の寵児と祭り上げたマスコミも政治家も、正しく物を考えることが出来なかったのであります。ホリエモンの悪事が発覚されず、政治家にでもなっていたらと思うとそら恐ろしいことです。
 彼が逮捕されたことは、彼のためにも良かったと思いますし、若い人たちにやはり地道に歩むことが尊いと言うことを認識させることが出来たと思います。そうした意味で良かったと思います。こうした時代の今こそ、仏法を真剣に聴聞する必要を痛感いたします。
 釈尊は、人はどんなに表面上幸せに見えても、詰まるところは苦であると、四苦八苦を解かれました。そしてその苦はどこから来るのか、それは煩悩によると説かれたのです。つまり、私が悩み、苦しむ原因は外からやってくるのではなく、自分の内面に起こった自分の心、すなわち煩悩によって悩み、苦しまされているのであります。そして悩み、苦しみの元である燃えさかる煩悩の火を吹き消すには、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つの正しい道を説かれました。一番はじめの正見とは、正しく物を考える(見とは仏教では考えることです)ことですが、なんだ、そんなことなら私はいつも正しく物を考えていると言われるかもしれません。しかし実は大変難しいことで、「私は正しく物を考えている」と思う考えこそ、大変な迷いであり、間違いであると言えます。それこそが正見ではなく邪見なのであります。
 人は自分が学んできたこと、実際に見て触れたもの、経験を通して考えたことは正しいと執着をしたがるのですが、必ずしも正しいとは言えないのです。必ずしも正しいとは言えないことに気付くには、仏法を聴聞するより他に方法はないと思うのですが、仏法を聞いて、聞いて、繰り返し聞かせていただきますと、邪見驕慢な私でしかなかったと認めざるを得なくなると思います。その邪見を捨てさることができると、正見が芽生えると思うのですが、仏法を聞かせていただくほど邪見を捨てさるどころか、いよいよ煩悩具足の自覚が深まると思いますし、親鸞聖人も「凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と仰っておられますので、邪見の煩悩を捨てさることはできないのではないでしょうか。しかし、不思議に煩悩具足の我に気付かされますと、そんな我を見捨てはしない、必ず救うと誓ってくださる阿弥陀如来の本願が頼もしく、かたじけない思いで味わえてくるから不思議であります。そこに自然とナンマンダブツ・ナンマンダブツとお念仏がこぼれ、安らかな足り足りとした心が味わえる思いであります。
合掌

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