相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『信心をうるとは 自分の本質が 明らかになることです』(2005年11月 1日)

信心をうるとは 自分の本質が 明らかになることです

 日曜礼拝に良く参拝くださるAさんが、浄土真宗の教えを一言で言いますとどういう事でしょう?と問われた。「称名念仏によって仏になる教え」と答えざるをえませんでした。念仏が浄土真宗において最も大切な行であることは誰しも分かっていることでしょうし、私たちの先祖は念仏を悦び、念仏の中に生き、念仏を今に相続してくださいましたが、近頃、その南無阿弥陀仏の念仏が声となって表れない。聞かれないのはどうしてでありましょう?

・念仏申せば、病気が治る。
・念仏申せば、金が儲かる。
・念仏申せば、人より偉くなる。

と言うことであるなら、誰でも声を大にして一生懸命念仏を称えるでしょうが、仏法を聞かせていただくと、いくら仏法を聴聞し、その中で、どれだけ念仏を称えても、病気が治ったり、金が儲かったり、自分の欲望が満たされるわけではないのですと聞かされれば、ナンマンダブツ・ナンマンダブツと念仏なんか称える気にはならないでしょう。あるいは、「念仏申さば仏になる」と言われても、仏とはどんなことかも分からぬし、分からない仏になんかなりたくもない。今の凡夫の身が凡夫のまま満足できればそれで良いと思うでしょう。それでは念仏を称える気は起きないと思うし、念仏を声にするのが恥ずかしいと言うこともあるでしょうし、いずれにしても称名念仏とはならないと思います。
 何故であるか考えるに、結局は南無阿弥陀仏の念仏がなんであるかが分からないからであります。何故分からないかと考えるに、結局は信心が無いからであります。ここで言う信心とは欲望をかなえて貰うために熱心に神社仏閣へお参りすることではありません。正しい信心とは、仏法をよくよく聞かせていただき、

1つには自分の本質が知らされることであり、
2つには念仏の心が了解されることであります。

この事が信心をいただくと申すのであり、信心をいただくと、念仏申さずにおれなくなり、浄土往生の約束をいただき、楽な、心安らかな人生が開かれるのであります。ナンマンダブツ・ナンマンダブツ

合掌

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