見守っていて下さる
聞いていて下さる
念じていて下さる
ある聞法会の休憩時間のとき、60代かと思われる2人のご婦人の会話が聞くとはなしに耳に入ってきました。「Aさんったら、もう何十年も熱心に聞法をされているのにどうしてでしょう?お会いするたびに嫁の悪口を言うは、何かにつけ愚痴をこぼすのよね。なんのために法を聞いているのかしら?あの人はどれだけ法を聞いても駄目ね。」と手厳しい。私はその時、悲しい坊主根性で「あなたも他人の批判をするよりも、自分を見つめることが大事じゃないですか?」と言いたくなった。浄土真宗の教えを聞かせていただくのは、偉くなるためでも、賢くなるためでも、人間が丸くなるためでもないと思うのです。親鸞聖人は「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)と申されました。
浄土真宗の教えを聞かせていただくと言うことは、不平の心や、怒りの炎や、愚痴の心を抑えようとしても何一つ抑えきれない、何一つ変えられない私でした。煩悩を捨てようにも捨てきれない、悲しい、情けない私でありましたと気付かせていただくことだと思うのです。念仏の教えの中に、そうした私でありましたと気付かせていただきますと、「ナンマンダブツ ナンマンダブツ」と念仏申さずにおれない自分があるのです。すると、不思議に念仏の中に、阿弥陀如来はこんなに情けない私を見捨てることなく見守って下さっていた。阿弥陀如来はこんな私の不平や愚痴をやさしく聞いて下さっている。阿弥陀如来はこんな私の幸せをいつでも諦めることなく念じて下さっていました。かたじけない思いでいっぱいになるではありませんか。
そこに凡夫は凡夫のままで良かった。賢こぶる事もなく、背伸びする必要もなかった。このまま、このまま煩悩具足のまましっかり歩んでいけます。生きられますという力強いものを感ずるのであります。
合掌