相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我』(2005年1月 1日)

つみふかき
我を救うと
誓いたる
弥陀の慈光に
気づかれし春

 あけましておめでとうございます。
年末の挨拶に来てくださったAさんが、「来年こそ良い年でありたいですね!」と言われました。普通なら私も「そうですね。」と応えるのでしょうが、なぜかその時、私の心に良い年とはどういう年であろうか?と疑問が湧いたのです。そこで私はAさんに「良い年とはどういう年ですか?」と尋ねますと、Aさんは「今年は中越大震災が起こったし、観測史上最高の真夏日や、台風の上陸数も過去最多でしたがそうしたことでの被害がないことですね。そして冷え切った景気が上向くことですかね。」と言われました。そこで私が「なるほど、あなたが言われたことは誰しもが望んでいることでありますが、そうしたことはあなたにも私にもどうすることも出来ないことではないでしょうか?」と言いますと、「確かにそうなんです。だから困るんです。」と言われます。「自然現象や社会的なことではなく、あなたの個人的なことはどうなんです?」と尋ねますと、「家族が健康で、明るく過ごせることですね。」と言われます。「その保証もどこにもないですね。」と言いますと、「住職は理屈っぽいなぁ」と言って帰られてしまいました。
 良い年でありたいと言うことは人間として生まれてきて良かった。生きてきた甲斐があったと味わえることだと思うのです。そのためには自分の本質を明らかにすることです。自分というものを根本的に明らかにしなければならないと思うのです。自分の本質がはっきりしないから、次から次へと様々な欲望に振り回され、自分の欲望がかなえられたときには有頂天になり、自分ほど偉く、幸せな人間はいないと思いこみ、自分の欲望が損なわれると、途端に沈み込んで自分が不幸なのはあのせいだ、このせいだ、方角が悪い、日が悪い、先祖のたたりだ、水子の霊だ、政治が悪い、社会が悪いと愚にも付かぬところに原因を求め、いよいよ悩み、苦しみの迷いを深めていくのです。仏法聴聞の中に自分を正しく見つめさせていただきますと自分が見えてきます。何かにつけ不平不満がいっぱいの私でした。いつも和やかな温かい心、思いやりの心で人と接したいと思っていても、気が付いたときには怒りの心を爆発させていました。言うまい言うまいと思っても抑えきれず愚痴がこぼれていました。他人が見ていなければ何をするか分からない、自己中心の私でしたと見えてくるのです。そんな私が新しい年を迎え、修正会を勤めさせていただくとき、正信偈の


煩悩障眼雖不見  大悲無倦常照我

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