相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『恥と恩を忘れた世相』(2004年7月 1日)

恥を知り
 恩を知る人は
 足るを知る

 現代社会は恥と恩を忘れた世相に思われてならない。年寄りも若者も共にである。仏様に手を合わす事もなく、悩み、悲しみ、苦しんでいる人がいても我関せずで、その日その日を自分さえよければの自己本位の生活ではないでしょうか。日常会話にしても目上の人や先生との会話も、友達との会話も言葉遣いの区別がないのです。礼儀作法にしても、人より平気で上座に座ったり、我先に手を出したり、恥ずかしい限りであります。
 恥という字は耳偏に心と書くのですから、この事は仏法をよくよく聞かせていただき、我が心を見つめたとき、知らされる事なのでしょう。この事は仏法を聞かせていただかないと"恥"と言う事が分からないという事なのでしょう。聖人が慚愧(ざんき・深く心に恥じる事)なき者は人とせず、畜生とす。慚愧あるがゆえに、すなわちよく父母師長を恭敬するとお教え下されました事が深く頷けます。我が生活を振り返り、反省せねばと思う事です。
 ご恩と言う事も忘れた生活をしているのではないでしょうか。私が文化的な生活が送れるのは両親のご苦労は言うに及ばず、どれだけたくさんの方々の恩恵を受けているでしょうか。計り知れない物があります。
 心の面では生きる事に疲れ、悶々としているとき、如来の励ましの声が聞こえてまいります。安心しろよ、無理するなよ、そのまま、そのままでいいんだよ。と優しく励ましてくださるのです。すると安らぎのお念仏がナンマンダブツ・ナンマンダブツと自然とこぼれます。楽な気持ちになれるのです。この事は、古より綿々とお念仏を悦ばれ伝えてくださった代々の先祖の方々のおかげなのでありましょう。聖人は

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし

とうたわれましたが、身を粉にしたり骨を砕く事はできなくとも、深く如来様のご苦労や善知識の方々、先祖への感謝、ご恩を忘れたくないものです。その恥と恩を知らされますと、今まで何かにつけ不平、不満、愚痴の生活でしたが、これで充分、満足です。勿体ない事ですと感謝の念につつまれる思いであります。

合掌

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