目に見える光と
目に見えない光あり
見えない佛の光に照らされて
命明るく輝く
先日ある友人が、「念仏なんか称えなくても、私はこうして元気に働いているし、健康だし、時には旅行にも行けるし、ゴルフもできる。酒も飲めるし、幸せを感じているから念仏なんか必要ないよ!」と仰った。皆様はどう思われますか?
お念仏は健康で元気に働き、旅行をしたり、ゴルフをしたり、酒を飲むなど、自分の欲望をかなえて貰おうと祈って称えるのではないのです。
仏法を聴聞させていただき真実のみ教えに出会いますと、そこに阿弥陀如来の無量の光、無碍の光など十二種類の不可思議な目に見えない光に常に照らされどうしであった私であったと気付かさせていただけるのです。
すると自然とナンマンダブツ、ナンマンダブツと念仏を称えずにおれないのです。
その光に照らされた命は明るく輝くのであります。
光に照らされない命は暗いし、暗い命をいだいての生活は、どれだけ健康に恵まれ、物質、経済に恵まれましても、常に何かにつけ不平、不満、怒り、愚痴の絶えない暗い生活といえるでしょう。
明るい命をいただきますと、苦しみ、悩みがなくなるわけではありません。お釈迦様も人生は苦なりと申されておりますので、悩み、苦しみの原因である煩悩が消えるわけでもありませんが、何事にも執着心が軽くなり、一日一日を深く大切に思えるようになり、何事にも心に悦びを多く感じられる、明るい充実した生活が味わえるのであります。