相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『経験ってなんだろう』(2002年11月 1日)

私が生きているということは、私に様々な経験が起っているということです。その経験は様々でありますが、内容を分析しますと
1:眼で何かを見ている。
2:耳で何かを聞いている。
3:鼻で何かを嗅いでいる。
4:舌で何かを味わっている。
5:身で何かを感じている。
6:意(こころ)で何かを思っている。
の6つに分析されます。この事を仏教では『眼識』『耳識』『鼻識』『舌識』『身識』『意識』の六識と言います。私たちの経験はすべてこの範囲を出ないのです。
 例えば交通事故を考えてみますと、目に車のぶつかるのが見え、耳にガシャンという音が聞こえ、意で大変だと思うのであり、六識を出ることはないのですが、ここで大事なことはひとつの経験でありながらも、自己が関係する事によって変化が生じることであります。見知らぬ人の交通事故と我が子の交通事故では大変だと思う度合いがまったく違うのです。
この事からも私たちの経験は純粋な経験ではなく、常に自我による経験なのだと言えるでしょう。
 この自我=我執=自己中心こそが根本煩悩であり、私たちが迷い、悩み、苦しむ実体なのであります。しかしなかなか自己中心の自分には気付かないものです。そのことに気付かされるのは仏法聴聞しかないのでしょう。仏法を聴かせていただいて、聴かせていただいて、初めていかに自分が無智であったか、思い上がっていたか、自我の固まりであったかを知らされるのでありましょう。
自分の本質を知らされますとそこにナンマンダブツ・ナンマンダブツと念仏申さずにおられない自分が顕れてまいりますが、それを信心と申すのであり、宗教的な深い感動もそこに味わえてくるのではないでしょうか。

合掌

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