相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『新年をお迎えして』(2002年1月 1日)

明けましておめでとうございます。
新しい年を迎えますと、急に"にわか信者"が増え有名な神社仏閣は初詣でさぞ賑わうことでしょう。そうした"にわか信者"の人たちは無病息災・家内安全・交通安全・商売繁盛を願い、わずかな賽銭で自分の欲望をかなえてもらおうと祈るようです。
無病息災・家内安全・交通安全・商売繁盛を願う心は当然なことであり、大切なことと思いますが、そうしたことを神仏に祈ることによってかなえてもらおうとする。それが宗教だと思うならそれは宗教としては次元が低いと言わざるを得ません。


こんな笑い話があります。
有名なA神社に薬屋の旦那が初詣に来られ、昨年は薬が売れず儲からなかったので、今年は薬がどんどん売れて商売繁盛するようにと祈りました。
そのあとに、病弱な青年が初詣に来られ、今年こそ健康になるように、そして病院通いや高い薬を買わずに済むようにと祈ったそうです。
祈る人は真剣ですが、こうして二人の祈る姿を客観的に見ますと祈ることによって自分の欲望を満たそうとすることがいかに低次元かお分かりになるでしょう。


 ところで、"一年の計は元旦にあり 一日の計は朝にあり"と申します。
元旦の"元"は『もと』の意で、"旦"は『太陽が昇る早朝』の意とされてますから、元旦は1月1日の早朝を言うので昼は元旦ではないのです。自然界に朝が始まっていても寝坊している人には朝が分かりません。早い良い目覚めが有って、初めて朝を味わえるのです。
朝には目覚めると言う意味が有るでしょう。ですから目覚めがなければ一年の計どころか、一日の計も無いのです。


            『朝寝して夜寝る前に昼寝して
                合間合間に居眠りをする』



と言う川柳が有りますが、こうした人が幸せになりたいといくら願ってもかなわぬものを感じます。目覚めることが大切なのです。


 皆様は東海道五十三次はご存知だと思います。安藤広重、葛飾北斎の浮世絵で有名ですね。この五十三次と言うのは、江戸日本橋から京の都三条大橋に至るまでの五十三の宿場を言いますが、善財童子(ぜんざいどうじ)と言う名の求道者が文殊菩薩の支持によって南へ南へと聞法求道の旅を続け五十三人の善知識に会って法を求められたことがヒントになっているとのことであります。善財童子が訪ねられた五十三人の善知識は高僧ばかりでなく、中には売春婦もおり、その人の前に膝まづいて法を聞かれており、最後の普賢菩薩によって、阿弥陀仏のお浄土に生まれようと願うようになったと説かれています。この善財童子が五十三人の善知識を訪ね聞法の旅を続けたと言うことは何を意味しているのでしょうか?


 善財童子とは善き財(たから)は童心であると言うことでしょう。
人は大人になり社会でいろいろ経験し、もまれるうちに、清い純真な心は邪見、きょう慢な心に染まってしまい、そうした心では法は耳に入らないと言うことを教えてくれているのでしょう。
親鸞聖人も邪見きょう慢の人は弥陀の本願を信じ喜ぶことが難しいと述べられております。


邪見きょう慢な私であったと知らされることが、目覚めると言うことであり、そこから仏法を聴聞する心が芽生えるのでしょう。


本年も仏法聴聞の中に人生の意義をしっかりと求めたいと思います。


合掌

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