相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『あなたが頼りにしているものは 何時でも何処でも如何なる場合も 力になってくれますか』(2012年9月 1日)

あなたが頼りにしているものは
何時でも 何処でも 如何なる場合も
力になってくれますか


 よく先祖を大切にと言われますが、先祖の血と願いは親から子へ、子から孫へと綿々と受け継がれ、今私の中に凝縮しているのであります。ということは先祖を大切にと言うことは取りも直さず自分を大切にと言うことです。自分を大切にと言うことは、自分の本当の姿に目覚めることなのです。本当の姿と申しましたが、姿形だけなら鏡を通して知ることができます。しかし本当に大切な自分の心の姿は鏡には映らないのです。仏の鏡(仏の教え)に依らねば分からないのです。


 親鸞聖人が和国の教主聖徳王と崇められた聖徳太子は仏教精神を政治の根本理念に置かれ十七条憲法を制定されました。その第一条に「和を以て貴しと為す」と、また第二条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と仏教精神を重んじられたのです。
浄土真宗の寺院では七高僧のお軸と並んで聖徳太子のお軸が掲げられています。用明天皇の病に際し衣帯を解くことなく、柄香炉を執って病の回復を願ったと伝えられるお姿です。その聖徳太子の遺されたお言葉に「世間虚仮 唯仏是真」(せけんこけ ゆいぶつぜしん)というお言葉がございます。「世間のことは嘘偽りが多く真が無い。ただ仏(仏の教え)だけが心の支えになる真の世界です。」と言われるのです。


 親鸞聖人も「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」(歎異抄後序)とお教え下されました。
そうです。そうです。と思いながらも私の日常生活を振り返ると、私は心のよりどころ、生活の支えをどこに求めているのでありましょうか。物、金、権力、愛情、仕事等に求めてはいないでしょうか。


 日常生活の中で家族が健康に恵まれ、経済的にも人並みの生活ができ、夫婦、親子の仲も良く、子供たちの進学、就職も順調だし、世間での人間関係も問題が無い。こうした良い境遇にあると人生が嘘、偽り、空しいとは思えないのです。これで満足という楽しい世界なのです。仏とか念仏が真だと言われても私には用が無いのです。しかし人生はそんな順調な時ばかりではありません。かけがえのない大切な人との別れを余儀なくされ、悲嘆のどん底に落とし込められる。あるいは今まで頼りにしていたものが見事に覆され、妻子も財宝も頼りにならないなどという事もよくあることです。どれだけ科学が進歩し、快適な生活ができ、医学が発達し長生きができるようになっても、私の病んだ心を癒やしてはくれません。何一つ力になってくれるものは無いと痛感させられますと、不可思議なご縁で賜った命だが、何のために生きるのか。真の生き甲斐は何なのか問わずにおれなくなります。


 仏や念仏は私には用が無いと思っていましたが、仏法を聞かせていただこうという気持ちになり、仏法聴聞生活の中に日頃、俺我俺我と思っていたがそうではなかった。呼吸一つも我が力では無かった。食べることも、眠ることですら我が力には非ず。自力無功と知らされ、それも何事も自己中心の煩悩だらけの恥ずかしい自分でしたと頷かざるを得ない思いで慚愧の念仏がこぼれるとき、不思議にそんなおまえを見捨てはしない。必ず救うぞとの阿弥陀如来の本願が聞こえるのです。そこにただ念仏の世界こそ私が命をかけて頼りとする世界でありましたと味わえる思いであります。聖徳太子や親鸞聖人のお言葉が改めて、そうでした。そうでしたと嬉しく心に響くのです。合掌

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