相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『深い御恩に気付かされ 深く生きる人生が開かれる』(2009年9月 1日)

深い御恩に気付かされ
深く生きる人生が開かれる

 近頃感ずることは、恩ということに関して"恩に着せる"とか"恩を売る言動"や"恩を仇で返す"姿はよく気付きますが、"恩を知る"とか"恩に報いる"ことを忘れた時代のように思え、このままでは世の中どうなってしまうのか心配です。恩と一口に言っても"親に対する恩""他人さまに対する恩""社会(国)に対する恩"そして"仏様に対する恩"などがありますが、親を親とは思わない。先生を先生と思わない。上司や先輩も関係ない。俺は俺と自分さえ良ければそれで良いという恩を忘れた自己中心の生き方をする人が増えたために世の中、暗いニュースばかりが報道されるのでしょう。
 そこでこのままではいけないと家庭、学校、社会教育の中に道徳教育を深めようと多くの人が頭を抱えておりますが、宗教抜きの教育では親や社会にご恩を感ずる姿は生まれてこないと思います。仏様のご恩に気づかされて、親に対する恩、他人さまに対する恩、社会に対する恩が見えてくるのです。それにはまず私たち大人が仏様のご恩に気付かさせていただくことです。それには仏法を聴聞させていただくしか手立てはありません。
 親鸞聖人が残された御教えをいただくとき、聖人のお心は常に仏様のご恩に報いたいとの生活であったことがうかがえます。私たちが親しくお勤めをさせていただいております「正信偈」も仏恩の深遠なるを信知してお作りなられたと動機を述べられておられますし、たくさんの御和讃も残されましたが正像末和讃には「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」と如来や善知識に対する並々ならないご恩を表され、九十歳でご往生あそばされるときも、聖人のご様子が御伝鈔に伝えられております。「聖人 弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさすもっぱら称名たゆることなし。」ご往生あそばされるまでただただ仏様のご恩の深き事を述べられておいでになりました。
 聖人がお残しくだされた仏法を聴聞するということは如来の本願に触れることです。出会うことです。お育てにあづかるということです。如来のお育てにあづかるとどうなるのかと申せば、他人より利口になるのでも、偉くなるわけでもありません。それどころか自分の愚かさ、いたらなさに気付かされるのです。愚かさ、いたらなさに気付かされると不思議に心のやすらぎを覚えるのです。今まで俺が俺がと自我のかたまりでいたので、他人に負けまい。馬鹿にされまい。偉くなるのだと力んでいたのでやすらげなかったが、俺が俺がの殻が破られ楽になれるのです。如来との出会いにより楽にさせていただけたのです。
 如来との出会いは、出会うべきものに出会えた。探し続けていたものにやっと出会えた。本物に出会えたという感動です。この感動は我が人生これで充分と味わえる世界です。悩み、悲しみに眠れぬ日もあった。悔しくて悔しくて朝まで一睡もできずに悶々としたこともあったがお念仏に出会えた今、人に褒められようと褒められまいと、人に認められようと認められまいと、人に馬鹿にされようと馬鹿にされまいとどうでもいいことです。それよりもお念仏に出会えた今、大きな大きなご恩の世界が、お陰さまの世界が味わえるのです。深いご恩に気付かされて、深い尊い人生が念仏の中にいただける思いがいたします。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。合掌

最近の記事

月別アーカイブ