相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『支えられ 願われつづけ 歩みたる ご恩おもいて 南无阿彌陀佛』(2020年1月 1日)

 新しい年が始まりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

元日を迎えますと、ふと思い出す小林一茶さんの俳句があります。
「目出度さも ちう位也 おらが春」
世間では目出度い目出度いというけれど、自分にとっての新年は良くも悪くもないいつも通りの日常だな。というような意味かなと、私は感じております。
小林一茶さんは熱心な浄土真宗の門徒さんだったと知り合いに聞かされまして、調べてみますと確かにその通りで、彼の俳句には浄土真宗の教えがとても影響していると有名なサイトに書かれていました。
そこで、大晦日に詠んだと言われる俳句も知ることができました。
「ともかくも あなた任せの としの暮」
浄土真宗の門徒さんだと知らなければなんとも頼りない俳句に感じますが、そうではなく、この一年あれこれやってみたものの、やはり阿弥陀様にすべてお任せの1年だったなぁといったところでしょうか。

 興味を持って少し調べてみましたら、辞世の句も目に入りました。
「盥から 盥へうつる ちんぷんかん」
盥は"たらい"と読みます。産まれてきたときに盥で産湯に浸かり、死んでしまうと湯灌でまた盥に浸かる。自分の人生を振り返ってみると分からないことだらけであったな。人生とはいったいなんだったのだろうか。というような意味に取れますが、なんとも考えさせられる俳句です。

 少しして、この俳句をまた調べようと思いネットで検索しましたら、有名な一休さんも同じような俳句を詠まれていると知りました。
「人生は 盥から盥にうつる 五十年」
そう詠まれているのだそうです。この俳句も同じような意味でしょうが、なんとなく分かりにくい感じがいたします。一休さんぽいとも思えるのですが、なんとなくはっきりとしない俳句です。

 それはさておき、自分の人生が「ちんぷんかん」で皆さんは納得いかれますでしょうか。確かに私たちはすべての事柄を理解し、納得できるとは思いませんが、それでもやはり最期の時には、「色々あったが充実した人生であった。」と満足しながら振り返りたいと思うのです。盥から盥へうつるのは皆同じですが、ちんぷんかんだったな。なんのために頑張ってきたのかな。なんのために生きてきたのかなと後悔はしたくないのです。

 それにはどうすればいいのでしょうか。親鸞聖人は御和讃で法然上人に出会い阿弥陀如来の他力の本願に出会われ、自分が悩み続けていたすべての問題を解決していただけたことの悦びをとても素直に表現されておられます。
「曠劫多生(こうごうたしよう)のあいだにも 出離(しゆつり)の強縁(ごうえん)しらざりき
 本師源空(ほんじげんくう)いまさずは このたびむなしくすぎなまし」
何度も生まれ変わってはきたものの、今まで一度も阿弥陀如来の本願に出会うことができずに後悔と満足できない人生を何度も歩んできた私です。この度法然上人に出会うことができなかったならば、この人生も虚しく終わっていたことでしょう。というような意味です。

 法然上人に出会えたことにより、幼少の頃から悩み続けていたなんのために生きる?死んだらどうなる?そのすべての答えを阿弥陀如来の本願に出会われたことですべて解決できたのです。11月にも引用させていただきましたが、
「本願力(ほんがんりき)にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
 功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩(ぼんのう)の濁水(じよくすい)へだてなし」
と、ちんぷんかんだった29年間の人生が法然上人から伝えていただいた阿弥陀如来の本願に出会ったことでそこからの90年にわたる人生が一気に転じていかれたのです。

 そう思いますと小林一茶さんが大晦日に詠まれた俳句
「ともかくも あなた任せの としの暮」がとても力強い俳句に聞こえてきます。皆さんもまたこの1年、どうか仏法聴聞の中に力強い満足のいく人生を歩んでください。合掌

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