相模原の浄土真宗のお寺『本弘寺』

住職の法話

タイトル:『我慢され 許されながら 今年も終わる』(2019年12月 1日)

我慢され 許されながら 今年も終わる

 浄土真宗の一番大事な法要「報恩講」もたくさんの方々のご協力により無事にお勤めできました。有り難いことです。
今年の本山御正忌報恩講は体調不良により十数年ぶりに1座も出仕することが適いませんでした。年齢や体調が気になる年齢になってきたことを痛切に感じます。

 この報恩講が終わりますと一気に今年も終わるのだなという気がいたします。まだ1か月丸々有りますし、友人のお寺さんの報恩講にもお呼ばれされておりますのでまだまだ忙しくはありますが、それでもやはり自坊の報恩講が終わりますとホッといたします。

 さて、今年の1年を振り返ってみますと、毎年のことでもありますがあっという間だったなと感じます。しかしそれと同時に今年は初めて、この1年間色々なことがあったけれど頑張ったなと感じるのです。なにを頑張ったのかよくよく考えるとこれといって形になったものは無い気もいたしますが、それでも不思議と頑張った気がするのです。

 住職を継いで3年過ぎたということで、周りのことをじっくりと観察できる余裕がでてきたのでしょうか。去年までの慌ただしくやらなくてはならないこと、片付けなくてはならないことに追われ続けていたときと比べて、じっくりと考えて行動できるようになったのかもしれません。

 これから先の自分の歩む道をじっくり考えていけるようになった。そしてそこに向かって少しずつではありますが進んでいけるようになった。そこだけ取り上げますと何か自分が誇らしくも感じられます。しかし、報恩講が終わった安心感からそのような気がしていたのではないかと思い始めました。
少し時間が経ち、じっくりとこの1年間の自分の言動を振り返ってみますと、確かに頑張ったと自分では思っているのですが、周りの方からはどう見えていたのかということに思いを巡らせますと、私が自分勝手に物事を進めているように見えていたのではないでしょうか。

 したいこと、すべきことをするのではなく、様々な案件に追い立てられてあたふたしていたときと比べて時間の使い方、仕事のこなし方を覚え、幾分自分のやりたいことを考える余裕が出てきた途端、ただ我を通して周りを困らせていたことが多かったのではないだろうかと思いました。

 頑張るという言葉を私は個人的に好きでありますが、この頑張る心持ち、頑張る行動が、ややもすると周りを無視して自分勝手に「頑なに我を張る」という相手の話を聞く気もなく、相手を思いやる気持ちもない状態の連続になり、ただ自分の考えていることが正解で、周りの人たちみんなにとっても良いことだと思いこんでいたのかもしれません。

 そんな私に対して家族や友人、お寺を支えてくださる大勢の方から呆れられていたかもしれないと思いますとなんとも恥ずかしい思いであります。
自分が正しく間違ってはいない。この道を進めばきっとみんなが慶んでくれるはずだと頑なに我を張り続けていたような気がいたします。
聖徳太子の作られた十七条憲法の第十条に「我必非聖」(我必ずしも聖に非ず)
というお言葉を様々なところでお話しさせていただいてきたにも関わらず、結局今年も周りの方々に我慢され、許され、見守られ続けてなんとかやってきたのだなと思い至るとき、恥ずかしい思いと同時に有り難い感謝の気持ちが湧いてまいります。

 いつでもどこでも我慢され、許されながら生かされていることを忘れず、聖徳太子のお言葉「我必非聖」も固く心に刻み、来る新しい年は、いえ、今日からは相手のことを思いやり、相手の話をしっかりと聞かせていただき、お互いに顔が晴れ晴れとした表情で過ごせるような「顔晴る」の精神で歩んでいこうと思うのです。合掌



 

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